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IONシリーズ外伝一   作者: 2626
『護国の赤蛇』
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『護国の赤蛇』 第十四章

恋の病。

 ローマに帰還したサマエルを出迎えた者の中に、エステルがいなかった。彼女は寝込んでしまっていた。ありとあらゆる手を尽くしたのだが、医者がさじを投げてしまった、病名すらわからぬ病であった。

(分かっている)エステルはすっかり痩せてしまった体を寝具に埋めて、思う。(この病の名前を、私は分かっている)

けれど彼女はそこから一歩も動けなかった。彼女は己のこの欲望のために動くくらいならば死ぬべきだとまで思いつめていた。人は、いかなる絶望に突き落とされても、いかなる苦痛と悲しみに襲われても、どのような誘惑に遭ったとしても、その魂の高貴さを失ってはならない。彼女の行動理念はそれであった。なのに、時々、彼女は声を殺して泣くのだ。彼女の体がうずく。寂しいと喚き、あの人が恋しいと叫ぶ。あの人の腕に抱きしめられたい。でも、それは絶対にやってはならない事なのだ。あの人は気高く強い人だ。それをわずかであろうと汚す事は絶対に許せない。あってはならない!そう強く決断していても、彼女は起き上がれないほど苦しんでいた。穢れた情念が彼女をむしばむのだ。

 彼女の所にサマエルがやって来た時、彼女は眠っていた。うなされながら眠っていた。苦しいのか胸元をはだけて、悩ましい息を吐いている。

「……」

サマエルは、彼女の頬に触れた。その途端にエステルの感情が濁流のように流れ込んできて、サマエルは思わず熱いものに触れたかのように手を離した。

『あの人の子供が欲しい』、要約してしまえばエステルの願いはそれであった。愛されなくてよい。奴隷で上等だ。ただ、ただ今の彼女は一人で生きていくのが辛すぎた。だが彼女はそれを言葉にも態度にも出さず、耐えている。今、彼に伝わった感情ですら、彼女が寝ているから勝手に能力が動いたのであって、起きていれば彼女はこれを断じてちらつかせもしなかっただろう。

「……だが、私は……」サマエルは彼女を起こそうとして、それを止めた。

彼は怖かった。あんな形でヒュギエイアを失った事、眼前でユニアノスが殺された事、それがまだ彼の中で尾を引いていた。

彼は黙って、エステルから離れていった。

 ざわざわと、今では大木になった、あの若木が神殿の隅で風に鳴っている。

その音をサマエルは聞いていた。そこにダイモスとバシレイオスがやって来た。ダイモスは神殿を出て、今ではローマの行政長官をやっていた。どうも魔神をやるよりもそう言う仕事が彼の天職であったらしく、彼のやる事に文句を言う者は誰もおらず、彼自身、生き生きと務めを果たしていた。バシレイオスはアテナイに住み、今ではそこの教授の一人となっていた。アレクサンドリアの発掘を支援しており、主に、失われた大図書館の歴史関係の書物をこれ以上散逸させないためにまとめていくと言う、気の遠くなるような作業を行っていた。二人は和やかに会話をしつつ、やって来る。

「お前達か」サマエルは振り返って、言った。「元気そうで何よりだ」

「ええ、おかげ様です!」ダイモスはしっかりと言った。

「?」異変にいち早く気付いたのはバシレイオスだった。「サマエル様は、お元気では無さそうなのですけれど……先の対イスラエル戦でお疲れなのでしょうか」

「いや」サマエルは否定して、「どうも私は臆病であるらしい」

「「えっ」」二人は同時に驚いた。

「ご謙遜……ですよね?」ダイモスは目をまばたかせた。

大天使すら撃退したこの魔神が、臆病だなんて、とても信じられない。

「いや、そうでは無い。 どうも私は女が絡むと臆病になる」

「ああ……」バシレイオスが納得したように、「どんな女性なのですか?」

「私と似ている。 命知らずの癖に男が絡むと臆病になる」

「……ラハブ様がご存命でいらっしゃったら、もどかしさのあまりにサマエル様を殴られたでしょうに……」

バシレイオスはそう言ってから、懐かしそうに目を細めた。

「だろうな、そうだろう」サマエルは同意した。

きっと殴ってから『据え膳は食え! 食えと言ったら食え! よし、お前をぐるぐる巻きにしてその女の所に連れて行って、お前達を監禁してやる、何か進展があるまでは一歩も外には出さないぞ!』を実行する。それも大喜びで、だ。

「あまり参考にはなりませんが」ダイモスがおずおずと、「その女性に花でも贈られては……?」

「それが出来たならば苦労はしていない」

「……………………………………」散々黙った後にバシレイオスは重々しい、いや、仰々しい口調で言った。「この場合の臆病とは、はっきり申しまして卑怯と同等でございます。 お互いが卑怯者では、何ら進歩がございません。 サマエル様、どうぞご決断を」

「……そうか、卑怯か……」サマエルは大木を見た。ざわざわと枝葉が風に鳴る、それを。「そうだな……そうだ」


 エステルはぼうっとしていた。月光が神殿の窓から差し染めて大理石の床を照らすのを、じっと見つめていた。徐々に遠くから誰かの足音が近づいてくるのに気付いた彼女は、はっとして、慌てて寝具をかぶって寝たふりをする。足音は、彼女が寝ている寝台の間際で止まった。エステルは胸が高鳴り、体中が熱くなる。

あの人だ。エステルはそれを直感していた。あの人が来た。

「エステル」声がした。「起きているのだろう?」

駄目だ、返事をしては。彼女は唇を噛みしめる。今口を開けば、彼女の汚くて赤裸々な感情を吐露してしまう。それだけは、駄目だ。この人を困らせる事だけは!

「あっ」だがエステルは声を出してしまっていた。彼女の体がたくましい腕に寝具ごと抱き上げられたからである。彼女はまるで熱に浮かされたかのように、頭がふわふわとして、体がおかしくなっていくのを感じた。

彼女は浴場まで運ばれた。

ゆっくりと彼女は床に降ろされた。そして、寝具がはぎ取られる。そこにいたのは、やつれてもなお美しい女であった。サマエルの手が彼女の衣に伸びた。脱がされていく。エステルはこれが夢なのか現実なのかすら、分からなくなってきた。生まれたままの姿になった彼女の姿は、動きさえしなければまるで美しい彫像のようであった。

「湯につかって来い」とサマエルは言った。

 エステルは奴隷から解放された。やがて彼女は男の子を産んだ。だが賢明な彼女は、決してその子を次の守護神の跡継ぎにしようとはしなかった。受け継ぐべきは血のみでは無い。ローマの次なる守護神は、これだけ大きな国を護るだけの力を持った、立派な魔神でなければならない。彼女はそう考えて、サマエルも承知した。

サマエルはよちよちと彼の方へ這ってくる元気な赤ん坊を感じた。彼が抱き上げると、赤ん坊は笑った。無邪気に、嬉しそうに。

それだけで彼には十分だった。彼らは幸福であった。数多の犠牲の果てにようやく手に入れた幸せであった。

ネルヴァと名付けられたその赤ん坊は、後にローマの優れた為政者となる。


 ダイモスにしてみれば恩人の子であり、しかも有能な、いずれは己を超えてローマの皇帝にもなりうるほどの部下であったので、ネルヴァへの可愛がりようは大変なものであった。『実の親よりもあれは猫可愛がりだ』と噂されるほどであった。ネルヴァは非常に賢明であって、しかも親の良い所ばかり受け継いでいたので、彼がアテナイに留学した時、バシレイオスは感嘆のあまりにサマエルへこんな手紙を送り付けたほどであった。

『サマエル様、まさに天恵と言うべきでございます、この子を貴方様が得られましたと言う事は』

サマエルはよくネルヴァを連れてあちこちに出かけた。赤い魔神の隣で目を輝かせているその息子の光景は、本当に微笑ましかった。

ローマの次期守護神に選ばれたのはニケと言う名の強い女神であった。このニケですら、下手をすれば己の地位を危うくしかねない存在であるのに、ネルヴァを可愛がった。天性の人たらし、とでも言うべき不思議な力がネルヴァにはあるのだった。

ネルヴァは色々な地方出身の若者と友達になり、彼らの力を借りて動いた。特にマウケナス、アグリッピウスと言う少年達は、彼の右腕であった。

サマエルとエステルはネルヴァを厳しくしつけたが、理不尽な行いは一度もしなかった。時には手をあげる事もあったが、その時はどうして手をあげるのかをきちんと説明してからやった。自分よりも弱いものを虐めて面白がった、それはとてもいけない事だ、何故ならそれは卑怯そのものだから。父親の威光を借りて威張った、それは許されない事だ、何故ならそれは恥ずかしい真似だから。

誰からも愛されて、ネルヴァがすくすくと育っていく姿を見て、サマエルはぼんやりと、ありがとう、と思った。運命の女神よ、私に希望を与えてくれてありがとう。願わくはどうか奪わないで欲しい。……否、護ってみせよう。たとえ相手が唯一神であろうと、命がけで護ってみせよう、この希望を!

同時に彼は思う。己が、老いてきている事を。

父母の言葉がよみがえる。『生きるべき時に生きて、死ぬべき時に死ぬ』、その時が迫っているのを彼は知っていた。死ぬ事への恐怖はあまり無い。むしろ惨めに生きる方が彼は恐ろしかった。醜態を一度でもさらして、今まで築き上げてきた己の誉れある過去を一瞬でぶち壊す方が、耐えられなかった。後顧の憂いは無い。驚くほど出来の良い息子とその仲間、優秀な魔神や女神、為政者達。彼は本当に後継者達に恵まれたと思った。

ネルヴァが成人した日の、夜だった。エステルは湯浴みに行っていて、サマエルは一人で寝台の上に寝そべっていた。

 ――妙な気配を感じて、サマエルは周囲を見渡した。誰もいない。だが誰かがいるのだ。

「出て来い」と彼が言った時である。闇の中から、にゅうっと人影が生えてきた。それは、死んだはずの――。

「アスモデウス?」

『ええ、私です』と彼は優雅に礼をした。『介抱して下さった上に、きちんと埋葬して下さり、本当にありがとうございました』

「私は幻覚か幽霊を見ているのか?」

『いえ、私は悪魔になりました。 悪魔と言うのは、まあ幽霊のような存在ですが、自我も理性もしっかりとあります』

「……ふむ」サマエルは取りあえず、己の頭と正気を疑うのは止めた。

『せめてものお礼に、情報を持ってまいりました』

とアスモデウスは言った。よく『見れば』美青年であった。

「何の情報だ」

『イスラエルの不穏分子についての情報でございます。 ……サタナエル、と言う大天使がイスラエルにて暗躍している模様。 どうやら武装蜂起を促している様子です。 ご注意を』

「そうか」サマエルはあの幼女姿の、ただし残酷そのものであった大天使を思い出す。「知らせてくれた礼を言う。 監視を厳重にしよう」

それからもちょくちょくと、アスモデウスは彼の所へ有益な情報を持ってくるようになった。

 そして、ついにイスラエルで反乱が起きるまで間もない、と言う情報がサマエルに伝えられる。アスモデウスからだけではなく、イスラエル総督からも『イスラエルの民に叛意の疑いあり』と言う急ぎの手紙が来たのだ。

「ネルヴァ」とサマエルは我が子を呼んだ。「一つ、頼みがある」

「何でしょうか」とやって来たネルヴァは不思議そうな顔をしている。

「イスラエルの反乱を鎮圧する際に、大天使サタナエルと私は戦うだろう。 勿論私は勝つ。 だが、その後は全てお前に任せる」

ネルヴァの顔に疑問が浮かび、それはすぐさま何かをこらえる、沈痛な顔に変わる。

「何故そんな事をおっしゃるのです! 父上は、最強の――」

「相手は『最悪』だそうだ」

「……」青年ネルヴァは、奥歯をかみしめる。

「だが私が、そしてお前がいる間は我らがローマ帝国は不滅だ。 ……ネルヴァ、だから」サマエルはお決まりの台詞を言いかけて、止めた。エステルと彼はこれまで厳しくも慈愛深くネルヴァを見守っていた。これからネルヴァが政治を行うにあたって、その友やダイモス達は全力で助力するだろう。そしてニケが次なるローマを守るだろう。ローマは続いていく。そして、サマエルは己が老いぼれてもうろくして死ぬなどと言う醜態をさらすのは、真っ平御免であった。「……いや、お前ならば何の心配も要らぬか。 何しろお前は、私達の子だ」

「父上……」ネルヴァは、目を閉じて、開けた。目の前の赤い男は、誰よりも威厳があり、同時に彼への愛情に満ちているような気がした。本当の親の愛が、その子を己の力で生きていけるように育てるものだとしたら、彼は誰よりも愛されていたのだ。「当然、です」


 「往ってらっしゃいませ」エステルは言った。赤い魔神の隣に美しい彼女が立つ光景は、まるで神話の一場面のように美しく荘厳であった。そして彼女は、サマエルが老いている事、そして醜く死にたくはないと思っている事にとうの昔に気付いていた。彼女はその願いを裏切る事も穢す事もしたくなかった。だから、むしろ微笑んで言う。「あの子がおりますので、要らぬ心配はなさりますな」

「ああ」サマエルは頷いた。「私は往く。 エステル、お前はこれからどうする?」

彼女は何のためらいもなく言った、

「どうするも何も、私は貴方様といつまでも一緒におります」

「そうか。 ありがとう」

「!」エステルはちょっと驚いた顔をして、それからまた微笑んだ。まるで一輪のつぼみが花開いたかのように、その微笑みは美しかった。「貴方様と夫婦になれて、こちらこそありがとうと申し上げるべきですわ」

 サマエルはイスラエルの反乱分子の鎮圧のために出征した。これが彼の最後の戦になった。エステルはそれを見送って、サマエルのための神殿を作らせた後、己の体もそこへ埋葬するように言い残してから、自害した。

神殿の中のあの大木が、ざわざわと風に鳴いていた。

愛の果ての死。

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