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IONシリーズ外伝一   作者: 2626
『護国の赤蛇』
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『護国の赤蛇』 第十一章

最強って凄い。

 サマエルはすぐに治療を受けた。だが潰された目まで治せる者はいなかった。幸いに彼は空間を把握する力を持っていたため、日常生活には不自由は出なかったが、もう道端の花が何色で咲いているのかは分からなかった。彼は顔を一枚の赤い布で覆った。

ローマはアエギュプトゥスからイスラエルの勢力を全て駆逐し、その地にアエギュプトゥスの王族出身の地方総督を置いて帰還した。


帰還の際、サマエルが船に乗った時、その事件は起きた。

サマエルの前に兵士達がやって来て、一人の少女を突き出したのである。まだ幼さすら感じるほどの少女であった。サマエルは何とはなしにその兵士達がいやらしい顔をしている気配を感じた。

「サマエル様」と兵士の一人が言った。「ローマの軍紀では女は許可なく軍に同行してはならぬとあります。 ですがこの女は男と偽って軍に同行しておりました! これは重大なる軍紀違反であります! どうぞこの女を裁いて下さいませ」

「……良かろう」とサマエルは頷き、女の所属していた兵団の長を呼んで、尋ねた。「この女は軍紀を乱し、娼婦のように男を誘惑したのか?」

「いえ、サマエル様、そのような事は……」兵団長は口が重い。

「戦前に置いて逃亡あるいは勝手な行動を取ったのか?」

「いえ……兵団長たる自分の恥をさらすようでありますが、むしろ今まで全く気付かなかったほど、この女は勇敢でありました。 発覚しなければ、昇進を考えておりました」それで口が重かったのかと、サマエルは納得した。

「では聞く。 何故今頃になってようやくこれが発覚したのだ? 紛れ込んだのがどうしてすぐに判明しなかったのだ?」

兵士達が黙り込んだ。兵団長が、血相を変えて彼らを見た。

「……やはり言えぬようだな」サマエルはまるで刃物を突き刺すように言った。「当ててやろう、貴様らはこの女を集団で暴行しようとでもしたのだろう。 それもこの女の立てた戦功への妬みによって。 私にはその趣味は無いが、男同士、と言う関係を好む者もいる。 それで服従させようとでも思ったのだろう?」

兵士達の顔色が真っ青になっていく。目の前の盲目なる魔神が、静かに怒り狂っている気配を察したのだ。

「我が軍にそのような輩は要らぬ。 妬む事はやむを得ないとしても、己の弱さを恥じずにそれを他人に擦り付けるような輩は要らぬ! ――直ちに処刑せよ、兵団長」

 死体が海に放り込まれた後、サマエルは少女に訊ねた。

「何故女である事を隠して付いてきたのだ?」

少女は淡々と言った。「……私は今でこそローマの民ですが、かつてアレクサンドリアにおりました。 アレクサンドリアに友達がいました。 助けたい一心で男だと偽り軍に入りました。 ですが友達はイスラエル軍に皆殺されておりました。 ……サマエル様、女にも友情と仇討ちをしたいと言う念はあるものでございます。 いくらそれがローマの法律や軍紀と相容れぬものであったとしても、どうしても我慢できぬ事と言うものが私の中にはありました。 ――今となってはいかなる処罰も受ける所存でございます。 彼岸で再会する時に、今の私ならば何ら恥じる事なく彼女達に言う事が出来ます、仇は取ったと」

烈女とはこの娘の事だな、とサマエルは思った。今、殺すには少々勿体ない娘だとも思った。

「ふむ。 いかなる理由があったにせよ、軍紀に違反はしたのだ、処罰しよう」サマエルは考えてから言った。「――お前を奴隷身分に落とす。 そして私の神殿に仕えよ」


 彼女の名前をエステルと言った。周りからの評判は、『痩せぎすの小娘』だった。『怖いもの知らずの小娘だ』と言われた。

サマエルは彼女を寝室に伴う事はしなかった。他の奴隷と同じように扱った。しかし、外出する時は彼女を必ず供回りに入れた。

二人きりで出かける事もあった。

「そこの花は何色をしている」とサマエルはエステルに訊ねた。二人は、二人きりで街道上にいた。サマエルが少し散歩をしたいと言ったためである。

「血のような赤色でございます」

「何故そのような色になったのであろうな」

「アレクサンドリアにいた頃、植物を研究する学者から聞いた事があります。 花は虫を呼んで、己の子孫を残すために、花を咲かせ甘い香りの蜜をちらつかせるのだと。 ですから、きっと花の色も鮮やかな方が虫を引きつけるのでしょう」

「そうか。 子孫を残すためか。 ……では子孫を残さぬ者は、どうなのであろうな」彼はぼんやりとラハブの事を思い出した。

「子孫を残すは受け継がせるため。 人の場合は、受け継ぐべきは血ではなく、築き上げてきたもの、何よりも、志でしょう」

「そうか」彼はラハブから受け継いだものを、握りしめた。ラハブは死んだ。その後をサマエルが受け継いだ。受け継がねばならなかった。何故なら人はそうやって、そうして、今までもこれからも営んできて、営んでいくのだ。「……受け継ぐべきは、血ではないのだな」

その時、彼らがたたずんでいた街道の先から人影が姿を現した。

「ああ、サマエル様!」

バシレイオスであった。声を上げて、走り寄ってきた。

「バシレイオス、アテナイの様子はどうだ」

ローマは逃げてきたアレクサンドリアの学者達を、ギリシアの都市アテナイに住まわせ、学問に再び励むように色々な支援を行っていた。

「おかげ様で落ち着きつつあります。 今ではアレクサンドリアから辛うじて持ち出した書物を皆で整理しております。 あの図書館の廃墟の発掘も順調に進んでおります。 そのおかげか、各地からも学生がやって来るようになりました」

「それは重畳。 ……バシレイオスよ、お前は何をラハブから受け継いだ?」

「……」バシレイオスが穏やかに、けれどどこか悲しそうに微笑んだ。「あの方がいなくなってから、ようやく分かりました。 人の話を聞いて下さる方の大切さを。 私は、あの方がそうしてくれたように、人の話に耳を傾けたいと思います」


 サマエルは広大なローマの領地の中を行幸して回るようになった。その側にバシレイオスとエステルを連れて、何年もかけて各地を回った。

『……彼と私達を乗せた大船団は各地の港に泊まり、彼は領地を歩いて回った。 その真の目的はイスラエルへの示威行為(デモンストレーション)であり、ギリシア、アエギュプトゥス、アフリカーナ、ヒスパニア、ブリタニア、ガリアなどを巡った。 彼の姿は目に光を失っても依然として、いや、むしろ以前よりも堂々として、立派であった。 彼は厳格であったが、その中に公正と配慮をも求めた。 彼は決して他者を哀れむと言う事をしなかった。 何故なら哀れむ事は他者への最大の侮辱であると知っていたからである。 彼を出迎える魔神や女神は皆ひれ伏し、歓迎した。 彼のために建てられた神殿と神像の数は、もはや数え切れないほどであった。 彼は今、正に、絶頂期に君臨していた。 盲目なる魔神は、史上最強と呼ばれるまでになっていた』

 ……バシレイオスが日記を別の船室でしたためている間、サマエルは寝台に腰かけて、エステルに葡萄酒を注がせていた。

「……」彼女からかすかに血の匂いがした時、彼はエステルが女だった事を思い出した。ふと、ヒュギエイアの事を彼は思い起こす。彼にとって女とは、つまる所母親の延長線であった。彼は賢い女が好きだった。強い女が好きだった。男に甘えて生きようとする女よりも、自力で生きている女の方に憧れていた。凛としていて、揺るぎない女。男を立てるよりも己の足で歩く女。それが彼にとっての『母親』だった。

サマエルはエステルに触れた。びくりとエステルが震えた。あの痩せぎすだった少女が、今では見事に優美な女の体形に変わっていた。

『……何をなさいますか』

サマエルの心の中で彼女の声が聞こえた。魔族の力に目覚めた彼女の『共感能力(ハルモニア)』であった。触れた他者に己の感情を音でも言葉でもなく、まるで温度のように伝えてしまう力である。

「怖いのか」

「怖いのではありません。 女なら貴方様には掃いて捨てるほどいらっしゃるでしょう。 何故奴隷の私なのか、理解が出来ないのです」

「ただの気まぐれだ」

「ただの気まぐれで私を?」

「そうだ。 昔の女をお前は思い出させた」

「その代用品ですか、私は」エステルの声は少しとげとげしい。

「かも知れぬ。 ただの欲望のはけ口かも知れぬ。 だが……」

「?」何だろうとエステルが思った時、サマエルは言った。

「今、無性にお前に、お前だけに私の子を孕ませたいと思った。 他の女では嫌だ。 お前でなければならぬと思った。 ……我ながら変な気まぐれだ」ここで彼はエステルから手を離し、「気にするな。 本当に孕ませたいと気が狂いそうになった時は、私は既にお前を押し倒しているだろう」

「……」

エステルは黙り込んだ。


 『ローマ歴二四七年、新芽の芽吹く月、一四日。 ガリアの地にてその隻腕の魔神ティールは恭しく彼を出迎えた。 その魔神の嫡子ヘズをサマエル様は返しに行かれたのだ。 やや申し訳なさそうな声で、彼は言った。 「お前に似たように育つと思っていたら、真逆に育ってしまった」 魔神は唖然とした顔で、「女好きのろくでなしになってしまったのですか」 「いや、哲学狂になってしまったのだ」 「哲学ぅ?」 「そうだ。 あまりにも理想を追いかけ過ぎているので、お前の所で現実を見せて鍛えねばと思って、返しに来た」 「はあ」 ……この哲学狂と呼ばれるヘズは私の学友であり、非常に思慮深い青年であった。 だが、彼は夢想主義的な所があったので、それをどうにかしようとサマエル様は思ったのだろう。 そして十数年後、私とヘズはふとした事で再会するが、彼は色白の夢想家から戦士の頭領に相応しい男になっていた』

『ローマ歴二五五年、枯葉の月、二二日。 アフリカーナでは黒き女神ペンテレイシアが彼を盛大に饗応した。 アフリカーナにはアマゾネスと言う戦女神の集団がいて、彼女はその集団の頭領だった。 彼女達の強さは相当なもので、かつてはローマ軍をも恐れさせた。 女はか弱い生き物だ、などと思ってはならない。 女は血を見慣れている分、土壇場での度胸が違う。 アマゾネスは「己を倒した男にのみ結婚を許可する」と言う風習を持っていた。 ペンテレイシアを倒した事のあるサマエル様は「妾で良いから側に置いてくれ」と彼女に迫られて困っていた。 彼女は、黒い肌が美しく目がダイアモンドのように輝き、引き締まった体は黒い雌豹のようで、まあ並大抵の男ならば逆に結婚してくれと迫るような美女だった。 だがサマエル様は断った。 エステルがこっそりと焼きもちを焼いて、サマエル様の背後で目じりを吊り上げているのを知ってか知らずか……』

『ローマ歴二五六年、青葉の月、四日、朝。 エステルは美女であった。 彼女とサマエル様の関係は分からない。 男女の仲のようにも見えるし、ただの主従の間柄にも見えた。 エステルについて簡潔に記しておこう。 彼女はアレクサンドリアの富裕な商人の家で生まれた。 彼女は気が強いが、理不尽でやかましい女では無かった。 一家がローマに引っ越して、彼女はローマの民になった。 そしてアエギュプトゥスがイスラエルから侵略を受けているのを聞いて、性別を偽ってローマの軍に入った。 友達を助けたかったのです、と彼女は後で言った。 彼女は奴隷に落とされた身の上であるが、恐らく私の予想では奴隷からいずれ解放されるだろう。 彼女は奴隷のままにしておくには惜しすぎる女であるからだ。 それでも彼女は私に一度だけ言った、「私はこのままで充分でございます」と』

『同日、昼下がり。 彼は敵であっても勇敢な者や死を恐れない者に対しては非常に寛大に接した。 逆に彼は卑怯者が大嫌いだった。 かつてブリタニアのエリンにセタンタと言う果敢な魔神がいた。 ローマ歴二一九年の事である。 セタンタはサマエル様により捕虜となったが、「貴様を殺すか自殺してやる」と言った顔をして、全くサマエル様に対して恭順しようとはしなかった。 サマエル様は彼と話し合った。 懇々とサマエル様は彼を説得し、彼の強さを認めて褒めたたえた。 どこまでも諦めずに、セタンタを一人の対等な相手として認めた。 その結果、最後にはセタンタはローマに忠誠を誓う事を決めた。 セタンタは自治を認めさせる代わりに、恭順をすると言った。 だが他のエリンの神々はそれを拒絶し、セタンタを殺した。 卑怯にもだまし討ちで、宴の席で酔わせてから殺したのだ。 これを聞いたサマエル様は激怒して、エリンの神々を弾圧した。 エリンの神々は逃げ惑ったが皆殺され、神殿は破壊されて新たに作り直されて、そこにはサマエル様とセタンタの神像が置かれた』

『ローマ歴二五六年、乾く月、七日。 ……アレクサンドリア、あの壮麗にして智に満ち溢れた都の廃墟は、砂と忘却の中に飲み込まれつつあった。 自然の力は偉大で、時は流れて止まらないと思う一方で、私はこぼれる涙をこらえきれなかった。 自然は変わらない。 だが人は、人の歴史は変わっていく。 時に無情に、時に優しく。 大図書館のあった場所に立つと、私は過去の思い出に浸る事の出来る一方で、否、と思うのだった。 いくら滅ぼされようと、いくら崩されようと、また築き上げねばならない。 また築き上げねば、この思い出を愛する事すら許されぬ、と……』


 ――サマエルがイスラエルとの国境近くにまで出向いた時であった。

男が地べたに倒れていた。必死に立ちあがろうともがいていたが、その力すらもう無いようであった。

イスラエルからの刺客か?と疑う一方で、サマエルはそれにしては弱り切っていると思い、供回りに男を介抱するように言った。

数日して、男は、ようやく喋るだけの力を取り戻した。

「俺は」と男は名乗った。「アスモデウス、と言う。 イスラエルから、逃げてきた」

「イスラエルから逃げてきた?」気になったバシレイオスが詳しく訊ねた。「どのような理由があったのですか?」

「……俺の女に、大天使に憑りつかれた男が、手を出した。 守りたかったのに、守りたかったのに、彼女は、殺されて、俺は、アエギュプトゥスの僻地に、幽閉された。 幽閉が解かれたと思ったら、今度は、ソロモンの宮殿作りに駆り出されて。 そこから、俺は、逃げて……」

男はそこで一度意識を失った。うわ言で何度も、殺してやる、と繰り返していた。だが医者はさじを投げていた。男の体はもう生きていくには壊され過ぎている、と。

サマエルはそれを聞いて男に会いに行った。

男はぼんやりと目を開けた。噂にも名高い、赤の魔神が立っていた。

「……貴方、が、サマ、エル、か……」

「そうだ」

「イスラエル、には……今、大天使、サタナエルが、降っている。 戦が、始まる……サタナエル、は、最悪、の大天使……」

「相手が最悪だろうと何だろうと、私は私の敵には負けぬ」

「……たの、む……イスラエル、を倒し……」

「分かった」

「……」

死んだ。

サマエルはアスモデウスの遺体を埋葬するように言った。


 サマエルはローマへ帰還した。十数年ぶりの事であった。

群衆がわあわあと道の脇に押し寄せて彼を歓迎する。為政者は上手くやっているようで、群衆の雰囲気は明るい。

サマエルは神殿を建てなおすように命令した。あの若木が、見事に育って、今や神殿の合間に植えるには狭いほどの大木になっていたからだ。サマエルはヒュギエイアの声を風の中に聴いた気がした。

『誰よりもご立派になられました』

最強の理由は、護りたいから。

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