『護国の赤蛇』 第九章
ラハブちゃんとサマエルさん。
ローマとアエギュプトゥスが同盟を締結してから、幾星霜。
もうラハブに来られるくらいならば、こちらから行くと覚悟を決めて、サマエルがアエギュプトゥスはアレクサンドリアに遊びに行った。守護神が動くとあって、ローマの大船団を従え、サマエルはアレクサンドリアに出向いた。
「いよう」ラハブは相変わらずの風体で、サマエルを見ると右手を挙げた。「元気にしていたか?」
「まあな」そう答えた時、サマエルは彼の背後にバシレイオスがいる事に気付く。「久方ぶりだなバシレイオス、勉学の方はどうだ?」
「おかげ様で、凄く楽しいです!」楽しくなければこんなに生き生きとしていないだろう、と言う顔でバシレイオスは言った。「それでサマエル様、アエギュプトゥスのラムセス一世が」
バシレイオスの眼が異様にらんらんと輝きだしたのにラハブは気付き、
「ストーップ! 喋るな、それ以上喋るな!!!」と慌てて制した。
「……」途端に死んだ目をするバシレイオス。
サマエルはラハブに何故止めたと訊ねた。
「だってバシレイオスが歴史について喋り出すと半日は止まらないんだ!」
「半日か……」
バシレイオスもある種の変態なのであろう。だからラハブと仲が続くのだろう。サマエルは合点が行ったと同時に警戒した。何しろ変態の行いに巻き込まれると、ろくな目に遭わないと痛いほど知っていたからだ。
「最短で半日だ。 声が嗄れてもまだ嬉しそうに話すんだ! ダメだからなバシレイオス!」
ラハブに叱られて、バシレイオスはしょげている。
数日後、サマエルは例の大図書館に入って、目がくらむような思いをする。
ここは、人々がこの、学芸の聖地アレクサンドリアで、巨大な『未知』の山に数多の人の理性と知性を以って、長い年月をかけて挑みかかる、言わば叡智の牙城であると思い知らされたのだ。分厚い本や巻物が棚に整然と並べられて、内蔵された知恵を無言で語っている。ここは世界の理性と好奇心と探究心、そして知識の庇護者であった。まるで子宮のようにその内部で理性と知識をはぐくむ、学問の揺籃の場所であった。
「素晴らしいな」サマエルは初めてこの大図書館を見た時と同様に、心底から感動した。
人の一生で出来る事など限られている。だからこそ人は受け継ぐのだ。受け継いで、更に営んでいく。食べられて命が循環するように、人々は永劫の知恵の輪を次の世代へと渡していくのだ。知識を受け継ぎ、発展させる事。種をまいて収穫し、その収穫からまた収穫を得る。それこそが人が獣と決別できる絶対点だった。
「?」
その時サマエルは視線を感じて振り返った。若い学生が、彼では無くバシレイオスを睨みつけていた。その眼にはとてつもないほどの憎悪があるのをサマエルは感じた。だがそれにバシレイオスは全く気付いていないようだが……。
神殿の一角の迎賓館でくつろいでいる時、サマエルはバシレイオスにあの学生について訊ねてみた。
「そう言えば図書館でお前を見ていた青年がいたが、心当たりはあるか?」
「ああ、それでしたらアストリウス先生の一番弟子のゼフォンさんですよ!」バシレイオスは手を打って、「とても厳格な方で、僕はしごかれてばかりです」と無邪気に笑った。
「どのくらい厳格なのだ?」そう問いつつも、サマエルは、あの青年の眼に厳しさよりも憎しみがあったのを感じていた。
「アストリウス先生が驚かれるほどです。 枕に出来そうな事典を一日で書写して来いとか、僕の書いた論文の内容が甘いと目の前で破かれたり、ああ、それから――」
「……」
サマエルはそれは学問への熱意によるしごきではなく、己の嫉妬と憎悪からのイジメだと思った。恐らく、バシレイオスの方が新参者でありながら、ゼフォンより優秀なのだろう。だがそれにちっともバシレイオスは気付いていない。妬まれる、嫉まれる、自分への敵意に気付くと言う神経が無いのだ。ラハブのように、彼もそう言う点では、どうしようもない変態なのだ。
サマエルはいかにもバシレイオスらしいと思った。もう少し、もう少しだけ世間慣れするべきだと思うと同時に、彼らしさがこのまま変わって欲しくは無いとも思った。バシレイオスが変態であっても好ましい存在なのは、サマエルにとってはラハブと同じだったから。
ゼフォンはついに決断した。許せないのだ。あの憎い男は、アエギュプトゥスのラハブのみならず、ローマの守護神サマエルとも面識があるらしい。
ふざけるな!
彼は激怒していた。
彼はアエギュプトゥスの学者の名門の家に生まれて、その男に出会うまで挫折と言うものを知らなかった。彼は世界一の天才だと周りから言われ、その通り己は天才だと過信していた。
その夢想を粉々にした男が、いきなり登場したバシレイオスであった。
バシレイオスの初めて書いた論文を読んだ時、ゼフォンは頭を殴られたよりも凄まじい衝撃を受けた。己の力量をはるかに超えた素晴らしい内容だったのだ。彼の誇りと自負は一瞬で木端微塵にされた。彼は絶句し、それから嫉妬に駆られてバシレイオスを影ながらいびった。だがバシレイオスはそれを特訓だと勘違いしている。おまけに守護神ラハブの寵愛まで受けて。それがゼフォンにはますます許せず、更にいびりの内容は酷くなった。だが、バシレイオスはまだ理解していない。
そのバシレイオスがローマの魔神サマエルとも面識があると知った時、ゼフォンはついに発狂しそうになった。ローマは新興国であったが、非常に強大な国であった。そのローマとの関係を破壊しないために、歴史学の教授達もバシレイオスをこぞって贔屓するだろうと思い至ると、もう、もうゼフォンには限界であった。
ならば――殺すまでだ。
ゼフォンは大金を払って、良く効く毒薬を密かに手に入れた。それをたっぷりと針の先端に塗りつける。その針を、彼はアストリウス教授の講義の際に使われる椅子の、バシレイオスのいつも座る場所にこっそりと立てて置いた。置いて、素早く彼はその場から立ち去ろうと体を翻して、ぎょっとした。
いつの間に!?
彼は真っ青になった。
真紅の男が彼の背後に立っていたのだ。
「止めておけ」と赤い衣の男は言った。「それ以上やれば、お前は己の一番大事なものを失うぞ」
「――」ゼフォンは声が出なかった。だが赤の男は続けて言う、
「気付いてはいないだろうが、これで失うものはお前自身だ。 お前は学者になりたいのだろう? だが、このまま帰ればお前は学者には決してなれない。 お前の動機はバシレイオスへの嫉妬だった。 嫉妬は限りないものだ。 お前は一生その嫉妬で苦しむだろう。 過去の亡霊と言うものは、忘却の彼方に追いやった途端に襲いかかって来る。 今は良くても、後にお前は一生後悔するだろう。 止めておけ。 今ならまだ間に合う」
「……じゃあ俺はどうすれば良い!?」ゼフォンが叫ぶように言った。「俺はヤツの所為で教授にはなれない! 一生うだつの上がらないままだ! そんな一生を過ごすくらいならば、俺はいっそこのまま――!」
「んー、だったら別の道を探せば良いさ」
能天気な声。講義室にラハブが入って来た。ラハブはサマエルを見て、ちっと舌打ちをして、
「お前も気付いていたのかよ」
「悪いか?」
「別に?」
ラハブは椅子の上の針を取ると、ゼフォンに言った。
「人生ってのはな、運命の女神のたなごころの上にあって、どこでどう変わるか分からない。 だが自分の力で変える事も出来ない訳じゃない。 恐らくゼフォン、お前の人生にとっての転機が今なんだろうぜ。 じっくり考えな」
「……」
二人の言葉に、ゼフォンが黙って、うなだれた。
サマエルがローマに帰っていってから数日後の、夜であった。
「変なんですよ」とバシレイオスは閨の中でひたすら首をかしげていた。
「変って……何が?」とラハブは半分ぼんやりとしている意識の中で、バシレイオスの体を抱きながら、言った。
「最近ゼフォンさんが変なんです」
ぱちっとラハブは目を開けた。「どう変なんだ?」
バシレイオスは心配そうに、「妙にお優しいんですよ。 以前は駄目な論文を書いたら目の前で八つ裂きにされたりしたのに、最近はそう言う事が一切なくて……重い病気にり患されていなければ良いのですが……」
「人に優しくなる病気なら、別に放っておいても良いじゃねえか」
「……それもそうですね!」とバシレイオスはにっこりと笑った。「それでラハブ様、『先代文明』についての世界的大家、インゴル教授のお話なのですが――」
また始まったぜとラハブは内心ではがっかりした。だが、可愛いので許した。
「『先代文明』ほどの高度な技術と文化を持っていた世界が何故滅びたのか、その原因こそ不明ですが、遺された『遺物』から察するに――」
「ああ……うん」
ラハブはまたうとうととまどろみつつ、相槌を打ってやるのだった。
ローマは更に領土を広げていった。アエギュプトゥス領では無い所を、海を越え山を越えてじわりじわりと我が物にしていった。ヒスパニア、ブリタニア、ガリア、アフリカーナなどを……。ローマは何十年とかけて、いつしか、巨大な帝国となっていた。
だが、その一方で、信仰の対象が全く異なるイスラエルとの軋轢は増していくきりであった。
ガリアを攻めた時の事である。ガリアにはローマにしてみれば『蛮族』と呼べる先住民がいた。サマエルは何故か、遠征軍に選り抜きの美しい娼婦達を大勢連れて行った。そして何故か、料理の達人をも大勢連れて行った。
侵略者ローマに対して、ガリアの戦士達が当然襲いかかって来た。ローマ軍は交戦の結果、大勢の捕虜を得た。捕虜達はいかにも獰猛な顔をしていて、今にも縛られた縄を引きちぎって暴れそうであった。その大将と思しき屈強な魔神も、ローマに屈するくらいならば隻腕で自害するかサマエルを刺し違えるかと言った、不敵な面構えをしていた。
サマエルは彼をまじまじと見ていたが、右手を挙げた。
「おい、やれ」
次の瞬間、ガリアの魔神は全く予想と異なった事態に度肝を抜かれる。わあっと大勢の美女達が走り寄ってきて、彼にしだれかかったり、色々と奉仕を始めたからである。それは捕虜達全員になまめかしく襲いかかった。続いて美食と美酒が運ばれてきた。ガリアの戦士達は面食らった。襲い来るのは想像していた苦痛や屈辱ではなく、想定外の快楽と享楽だったのだ。だが人は想像していた苦痛に耐える事は出来ても、想定外の快楽に耐える事は難しかった。
――三日後、今までの不敵な面構えはどこへやら、すっかり腑抜けた顔の魔神がいた。
「参った」と彼は隻腕を挙げて言う。「降参だ、降参だ! これ以上されたら俺はおかしくなってしまう!」
「そうか」サマエルは平然と、「ならばもっとやってやろう」
サマエルが指を鳴らすと、とっておきの美女が――。
「ひい!」隻腕の魔神はらしくもなく悲鳴を上げた。「何の拷問だ!?」
「……普段お前達はどのような生活を送っているのだ?」サマエルは気になって訊ねた。
「こんなただれた生活じゃない。 武芸の訓練をし、死ぬ事への恐怖を退治するために毎日戦って、そして一度誓った事は絶対に裏切らない、裏切ったら死ぬと決めている」と魔神は答える。
「ふむ」サマエルは何とはなしにこの魔神に好感を抱いた。素朴で潔いな、と思ったのだ。「お前の名前は何だ? 私はサマエルと言う」
「ティールだ」
「ではティール、お前達の自治を認めるがその代わりにローマへ降れ」
「……否と言ったらまた女攻めにするんだろう?」
「分かっているならば話は早い」
ガリアの前線に城壁を築いて、ローマ軍のガリア遠征は終わった。ティールはサマエルに忠実に従い、やがて彼の強さに完全に心服してしまった。人質に己の嫡子ヘズを差し出してしまうくらいであった。
ティールはその後もローマには忠実に仕えて、ガリアを統治する。
ローマにやって来ては、酔ってご機嫌になると、ラハブはサマエルの前でよくアレクサンドリアの自慢をした。
「医学、農学、天文学、数学、幾何学、物理学、哲学、言語学、修辞学、弁論術、宗教学、地理学、歴史学、化学、心理学、後は、えーと……アレクサンドリアでやっていない学問の方が少ないな。 凄いだろう?」
「ああ」サマエルは適当に流す。もう彼はラハブの扱い方を習熟していた。
無視されないものだから、ラハブはますます調子に乗って、
「人は知り、学び、更にその先へ進もうとする生き物だからな。 唯一絶対の神がいなければ生きていけないと言うほど、人は弱くないと俺は信じている。 まあ、人は俺の理想より強くは無いんだろうが。 ……唯一神の嫌な所は人から自由に疑い。自由に思考する力を奪う所だ。 だってさ、おかしいじゃん、唯一絶対の神がいるなら、どうしてこんなろくでもない世界になったんだ? 何がどうなったらこんな残酷な世界になったんだ? 唯一絶対の神が怠けているのか? 怠けるようなヤツを唯一絶対の神として崇めるのか? ま、俺みたいなのも美少年が側にいて国が安泰なら何もしない怠け者だがなー」
「お前はそれでも守護神か」
それでも確固たる守護神なのだから仕方が無いと知りつつ、サマエルは言った。
「仕事はちゃんとやっているぜ。 降り過ぎず涸れぬよう、毎年毎年骨を折っている」
「雨か」
「豊穣と繁栄のためさ」
「豊穣とは何者かの血汗が流れぬ限り、維持は出来ないものだろう」
「まあな。 だがそれも俺達魔族の愛欲さ。 愛していないものなんか食べたくも無い。 ――学者が言うには、人には三つの大きな欲があるそうだ。 性、眠、食。 で、俺らは望むと望まずに関わらず、その二つを同時に満たす事が出来る。 お前だって愛してもいないものは食べたくないだろう?」
「……血の一滴に至るまで、私は舐めとっている。 それが犠牲となった命への最大の感謝ではないかと思って、な」
「そうさ、そうだとも。 命に感謝する心を忘れた者ほどみっともない者は無い。 ましてや唯一絶対の神を言い訳にかざして、死んでくれた命への感謝の代わりにソイツへの祈りを捧げるような真似は、もっと醜い」
「……」サマエルは今度はラハブが妙に真面目なので変に思った。ラハブは普段はおちゃらけていて、おまけに『まあ良いじゃねえか』主義で変態そのものなのに。「アエギュプトゥスで何が起きているのだ?」
「いやー国王が交代してな」ラハブは少し顔をしかめて、「ちょっと若いだけあって、すぐに血を見たがるんだ。 特に一神教迫害が酷くてなあ。 ヘブライの民の新生児を全員殺させたりとか、本当にむごい事を、俺ら多神教の神々の方がマジ切れしたのにやりやがったんだ。 ……まあ、流石に年を食えば落ち着くだろうがよ。 でも最近じゃアエギュプトゥスのみんなの間にも、ヘブライの民へのふざけた差別意識があるみたいでさー。 本当嫌だぜ、ああ言うの」
「そうか」サマエルはふとイスカンダルを思い出した。
アエギュプトゥス王も、あのような悪徳に身を染めるような事が無ければ良いが、と思った。
ラハブは暗くなった話題を変えて、
「『ミイラ』って知っているよな、ウチの亡骸埋葬方法だ」
「ああ、知っている。 死体を干物にするのだろう?」
反射的にラハブはサマエルを蹴った。
「干物言うな! まあ金の無い連中は干物にするが、王族や神々はみーんな目が吹っ飛ぶような大金をかけて己の亡骸を『ミイラ』に変えて埋葬する」
「どうして干物にするだけでそんなに大金が――?」
「だから干物じゃねえ!」二撃目。「丁寧に死体を洗って清めて内臓を取り出したりしてから薬に漬けて、死後の世界での安寧を願い、祈りを込めた高価な装身具を一つ一つ包帯で体に巻きつけていくんだ。 『ミイラ』化専門の葬儀神だっているんだ。 んで、黄金のマスクをかぶせて棺に入れて埋葬する。 金はかかるし時間もかかる、だがこれがウチの習わしなんだ」
「ああ」サマエルは納得した顔をして、「お前のその格好も『ミイラ』になるのに手早くしようと――」全裸に近い上に包帯で下半身を……。
「皮肉を言うなら何度でも蹴っ飛ばすぞ! 良いか『ミイラ』ってのはな、」
「分かった分かった」もう辟易したサマエルは言う、「お前もいずれは『ミイラ』になりたいのだな。 その時は葬儀に私も出よう」
途端にラハブは機嫌を直して、「俺の墓や神殿が荒らされないよう、番人頼むぜ?」
この二人のやり取りは、書いていて楽しかった。




