史上最悪の魔物
目の前で屹立する、血を禍々しく染めたような赤黒い巨体からは、比喩表現でもなんでもなく、恐るべき絶望が溢れていた。
隆起した筋肉は鋼鉄のような硬さを誇り、全身を覆う薄い体毛は、そのどれもが短剣ほどの大きさと鋭さで、左右五本の指の爪は、牛さえも一刀で倒せてしまいそうな大きさと、ノコギリのような刃をもっている。人間に似た体の上に生える頭は、まるで地獄の番犬ケロベロスを彷彿とさせる三つの犬の頭で、滴り落ちるよだれと時折見える黒ずんだ舌が、その獰猛さを如実に表している。
一体誰がこんな凶悪なモンスターを相手にするというのか。そして何故、その面前に経つのが自分なのか。
いくら考えようとも、絶望に飲み込まれ、まともに思考できない俺は、ただただ引けた腰で奴にとっては小枝ぐらいしかないだろう剣を必死に握っている。握るだけで必死だ。絶え間なく揺れるその切っ先が、今の俺の心情を、言葉以上に表現している。
今すぐにでも逃げ出したい。武器もプライドも何もかもかなぐり捨てて、目の前の絶望から逃げ出したい。だが出来ない。
もう、やるしかないのだ。
自分を“また”裏切りたくはない。
涎を垂れ流す三つの口から、大音量の雄叫びが轟いた。
プレッシャーすら感じるほどのその咆哮を受けて、俺は思わず体を縮こまらせる。その上からはるか頭上の天井の小さな欠片が降り注いだ。長く尾を引くその雄叫びが広間の中で反響し断続的に響く中、禍々しく赤黒く発光する、合わせて六つの目が、ゆっくりと動いてこちらを睨む。
そのモンスターの名前は、ゼルファー。西の大陸の生きとし生けるもの全てを喰らい尽くし、東の大陸までその歯牙にかけようとしている、史上最悪のモンスターだ。討伐しに来た多国籍の軍隊を退け、無数のアンサーたちを叩き潰し、堂々と、かつて栄華を飾った古都の地下を根城にした。大胆不敵なその行動に、人々は成すすべがない。
剣を握る手に、力がこもる。
(だからこそ……やるのだ!そうすれば、もう誰も、俺を馬鹿になんてしない!)
ようやっと俺がここに来た理由を思い出した。絶望に飲み込まれ麻痺していた頭が、動き出している。
改めてその巨大な体を見る。俺なんて一口で飲み込めてしまう大きな口に、二重に並んだ鋭利な牙。
言わずもがな強靭な肉体に俺は決して勝ちはできないだろう。
(だったら、毛の一本や二本ぐらい盗って逃げる!それだけすればいい!)
「うおおおおおお!!」
怪物の雄叫びに対抗するため、腹の底から鬨の声を上げると、それを合図にそれまで俺の様子を見ていたゼルファーが、俺の方へと重い足音を響かせ地面をへこませながら走ってきた。
俺もしっかりと剣を握り直し、迫り来るゼルファーに向かう。ゼルファーが右腕を振り上げ、左足の爪を床に突き刺し強引にブレーキをかけると、勢いが乗った右手を凄まじいスピードで振り下ろした。それに対し俺は、右手が寸分違わず俺を頭から叩き潰すはずだっただろうその瞬間、勢いよく床を蹴り前方に転がり避ける。
背後のけたたましい轟音に冷たいものを感じながらも、直ぐに立ち上がり肘まで地面に埋まってしまい、一瞬動けなくなったゼルファーのかかとにすかさず近寄り、剣を振り上げた。
「おりゃああ!」
全身の筋肉を使った渾身の一撃。剣の耐久力なんて考えない決死の一撃は、ゼルファーの体毛の一本を軽い音と共に切り落とした。すぐさまそれを拾い、大きすぎて硬すぎて懐にしまえない体毛を右手に握りしめて、回れ右をして脱兎のごとく今入ってきた入口へと駆ける。
ゼルファーの怒りの雄叫びが、一目散に逃げていた俺の背中を激しく叩いた。もんどり打って地面に倒れ込んだ俺の手から、剣が転がり床を滑っていってしまう。それを目にし、腕の中にある体毛の硬さに安堵しつつ、背後を振り返った。
「ぐるああああ!」
腕を引き抜いたゼルファーが肩をいからせている。
小さく自分に食われるだけのような存在が、いま自分に何をした?傷をつけようとした!なんと傲慢で無礼なことか!決してにがしはしない!より強く発光しだしたその瞳が、そう語っている。
「……!」
無言で体毛の生え際の方に布を巻きつけ、手が傷つかないようにし握る。もはや剣よりもこの体毛の方が強く頑丈な武器だ。長年の相棒だったが、ここでお別れだ。せめて、意思があるのならば俺が無事に脱出できることを祈っていて欲しい。
思考を切り替える。次に逃げるチャンスを作るには、一体どうしたらいいものか。考える。辺りを見回す。周りには遮蔽物になるようなものは一切ない。そして、ゼルファーは怒り心頭と来ている。
(体力が続くまで……逃げ続けるしかないようだな!)
それは到底できないであろうことは、重々承知している。だが、生きて帰ることを決めたのだ。
ゼルファーが膝を曲げた。
(くる!)
地面を揺らしながら天井近くまで飛び上がるゼルファー。そこで反転し、両足を天井にくっつける。俺はゼルファーが飛び上がった瞬間から、移動を開始していた。その場に立ったままでは、絶対に危ない。本能的にそう考えたのだが……。果たして、俺のその勘の行動は、正解だった。もはや目で捉えられる速さを超えたゼルファーが、たった今まで俺が立っていた場所を押しつぶした。あとほんの一瞬動きが遅かったら、避けきれていなかっただろう。なにせ、避けたにもかかわらず衝撃波で、軽く吹き飛ばされるぐらいなのだから。地面を滑りながら着地する俺の目の前では、巻き上げられた埃によってゼルファーの体が見えなくなってしまっている。
(次はどうやってくる!?)
体毛を構え油断なく波打つように動く埃を見つめる。その時、埃がわずかに揺らいだ。条件反射で横の地面に倒れ込んだ俺の頭上を、空気を切り裂きながらがれきが通過した。直後、頭に衝撃。ぐらりと揺れる視界の端に見えたのは、飛んでいる最中に崩れたがれきの破片だ。
体が強ばった。感じる。ゼルファーの突き刺すような目線を。だが、一瞬止まった思考はもう言う事を聞いてくれない。今まで奇跡のような勢いで動けていた反動が押し寄せたのか、集中力が切れてしまった俺は埃を突き破るようにして現れ走ってくるゼルファーをぼんやりと見つめた。
とうとう俺の前に立ったゼルファーは、乱暴に右手で俺を掴み上げた。
「が……!あ!!」
肺が圧迫されて空気が絞り出される。だんだんと思考が鈍くなっていく。
(俺は……ここで死ぬのか……!)
見定めるように俺を見つめるゼルファー。傾けられ、あるいはひっくり返され、ぞんざいに扱われる。まるでおもちゃのように。
(いや、現におもちゃか……)
抵抗する気力すらなくなり、どうでもいいことを考えてしまう。他に考えなければいけないことがあるはずなのに。もう脳は楽な方に楽な方にと、諦めてしまう。
観察に飽きたのか、ゼルファーはもう一度しっかり俺を見て、赤い瞳と目が合い、ゆっくりとその口が開かれて、凄まじい悪臭が俺の鼻腔を貫き、喉の奥の奈落のような漆黒の闇に意識が飛びそうになる。
ぬめる舌の上に落とされ、口がゆっくりと閉じていき、外の明かりが消えかけた。
その瞬間。
俺は、未だ握っていた体毛のことを思い出して、そして、走馬灯の中俺を罵倒しいじめ続けてきた奴らの顔が浮かんだ時、燻っていた怒りの火種が爆発し俺の心を昂ぶらせた。
「ふざけるなよ……」
誰にも、ゼルファーにさえ聞こえていないだろう弱々しい声。それが自分の声だということに驚愕する。
「ふざけるなよ……!」
流され嚥下される事に震え上がる体。このあと待ち受ける凄惨な最後に戦慄する。
「ふざけるなよ!」
それら全てを力に変えて、
俺は、
全身全霊をこめて、
ゼルファーの体毛を、
無意識でも離さなかったその鋭い切っ先を、
「ふっざけるなよおおお!」
絶叫と共に、
ゼルファーの上顎に突き刺した。
おそらく誰も聞いたことがないだろう、ゼルファーの悲鳴が響いた。激しく揺れる口内。ゼルファーの体。体毛が抜けると、俺の体は空中へと投げ出された。落ちている最中、視界に映ったゼルファーは、よほど混乱しているのか俺を食べた口ではない口に手を突っ込んでは引き抜き、また別の口に突っ込んでいる。俺を探しているようだが……。
(俺はもういねぇよ……「ぐっ!」
体が床に叩きつけられる。それほど高い位置ではなかったのか直ぐに体勢を整えることができた。チャンスは、今しかない。俺は混乱し、頭同士で喧嘩をはじめるゼルファーから体が許す限りの速度で離れる。体を揺らし暴れ狂うゼルファーの耳に、俺の足音は届かない。ゼルファーが穿った床の大穴を回り込んで避けると、その途中に愛剣が落ちていた。ためらいなく拾い上げそのまま走る。ギリギリの生還を果たした俺の体は、不思議と疲れを知らずそのまま一気に駆けていく。出口が迫ってきた。
(あと……もう……少し!)
出口が目の前まで迫った時、出口がほのかに明るくなった。その光源がわからずたたらをふみそうになったが、ここで立ち止まったら死ぬと思い直し、そのまま走る。
明かりの原因が見える距離に来たとき、俺は思わず喝采を上げそうになった。
そこにいたのは、多国籍軍だった。何をしに来たのかはわからないが、ともかく助かる。俺がそう安堵した時、エンジ色のローブを着た女魔道士が俺に気づき、目を見開き、口を大きく開けて、絹を引き裂くような悲鳴をあげた。
それが、失敗だった。直後、背後でゼルファーの声。どうやら混乱状態から今の悲鳴を聞いて回復してしまったらしい。
(頼む……!間に合ってくれ!)
ゼルファーを確認することももどかしく、俺は神よと祈りながら最後のラストスパートをかける。地面から振動が伝わってくる。早くしろと叫ぶ兵士の声が聞こえた。
「扉を閉じろ!」
出口がゆっくりと閉まっていく。
そこでようやっと何故多国籍軍が来たのかがわかった。彼らは封印しに来たのだ。ゼルファーをこの古都の広間ごと。俺との戦闘に気を引かれ、ゼルファーが反応できていない今だからこそ、出来ると判断して行動していたのだろう。
その兵士がさっきのように叫んだということは。
(おいおいおいおい!!)
扉が閉まる速度が早くなった。
(まて!まだ俺が!)
心の中の叫び声なんて聞こえる訳もなく。無情にも扉は閉まっていく。
(だめだ……。間に合わない!)
俺が諦めかけたその時、俺のすぐ脇を突風が通った。 そして続けざまに響く悲鳴と、ゼルファーの叫び声。俺が見たのは、疾風の速さで駆けてきたゼルファーが今まさに締まらんとする広間の扉を、強引に押し開けようとしているところだった。向こう側から締めようと押している者の力がよほど強いのか、ゼルファーの筋肉が大きく膨らんでいる。
今だったら幸運の女神はいると、本気で信じてもいい。
ゼルファーの股下を通り、扉をくぐり抜け現れた俺に、兵士たちが一様に驚く。だがそれ以上に、俺は兵士たちよりもはるかに体格の大きな存在に驚いた。それは、本来人間とは敵対関係のはずのトロールだった。しかも二体も。
彼らはゼルファーと扉を締めようと力比べをし、顔を苦悶に歪め、全身から玉のような汗を滴らせている。訳が分からず呆然としてしまう俺を、兵士が担ぎ起こして扉から離してくれた。
離れるその途中、トロールとゼルファーの雄叫びが聞こえ、肩越しに振り向いたその先で、閉まる直前の扉の向こうで光るゼルファーの瞳が、俺を真っ直ぐに見つめていた。
次の瞬間、扉が完全に閉まり、肩で息をするトロールたちを下がらせ、魔道士達が扉に封印の呪文を多重がけする。
俺の意識はその光景を最後に、闇へと落ちていった。