四
「よーし、読み合わせはここまで! 明日から、いよいよ立ち稽古に入るからな! 皆、しっかり台詞を、頭の中に叩き込んでおけよっ!」
ぱんと手を叩いて、健一が座員たちに申し付けると、その場で台本を手にしていた座員たちは、一斉に「承知致しました!」と大きな声で、返事をした。
軽く「やっ!」と掛け声を上げて、健一は立ち上がり、村雨座──いや、今は月村座になっている──の舞台を眺め渡した。
背景には巨大な書き割りが描かれ、真っ赤な夕焼けと、黒々とシルエットになっている城郭が見えている。手前には湖があり、さらに近景には松林が並んでいる。
舞台袖では、鳴り物と呼ばれる、楽隊──太鼓や三味線、笛などを手にした座員が細かな打ち合わせをしている。
舞台下の奈落では、大道具を動かす役目の座員が、動き回っている音がしていた。
あれから健一は、永子の提案に乗って、かつての村雨座を月村座と改め、座長に就任していた。
座員は以前の村雨座で働いていた人間を雇い入れ、以前にも増して大掛かりな芝居興行を打ち出している。
「準備は、うまく整っているらしいわね」
明るい声で話し掛けて来たのは、永子である。手に香盤表を持って、これから打つ芝居のための大道具や、小道具、衣装などを確認している。
健一は永子の言葉に「うん」と頷く。満足げに、立ち働いている座員たちを見守る。
座員たちの記憶に、村雨剣鬼郎は存在しない。いや、総ての江戸NPCの記憶から、村雨剣鬼郎という【遊客】の記憶は、すっぽりと抜け落ちていた。
これが〝消去刑〟と呼ばれる、刑罰なのである。
剣鬼郎の村雨座に、麻薬組織である【遊客】が紛れ込んでいたため、剣鬼郎は罪に問われた。江戸では、本人に罪がなくとも、家族や、使用人から罪人が出た場合、連座制が適用される。
本来なら剣鬼郎は、火事を出した責任者として「火炙りの刑」が言い渡されるはずであったが、本人はその前に現実世界へ帰還している。そのため、最も厳しい刑罰として、〝消去刑〟が実施されたのだ。
〝消去刑〟とは、罪人に関わる、あらゆる事柄が消去される、仮想現実独特の刑罰である。
村雨剣鬼郎についての記憶、一切合財が江戸NPCから一斉に消去されてしまう。そのため、剣鬼郎と関わりの深い健一、永子の記憶も一緒に抹消され、二人は江戸に戻った早々、人々から初対面扱いされ、困惑を味わった。
ただし、【遊客】は別だ。【遊客】の記憶は変化しないため、二郎三郎や、片岡外記は、健一と永子を覚えていられる。
残酷な刑罰だ……。
健一は詳細を二郎三郎から聞かされた時、正直にそう思った。
だって、そうではないか!
どんな残虐な罪を犯した罪人でも、その記憶は、長く人々の記憶に残る。死刑になっても、罪人がかつて存在した、という記憶は、人々の心の中に残る。
が、〝消去刑〟では、それすら残らない。綺麗さっぱり、そんな犯罪人がいた、という記憶すら残さない。
これほど、人間の全存在を無視した、刑罰があるだろうか?
〝消去刑〟を導入したのは、様々な仮想現実を監視する人権団体が、江戸で実施されている磔や、火刑、獄門などの刑罰は人権を無視している、と勧告を突きつけたのだそうだ。
もし導入しなければ、江戸仮想現実そのものを消滅させるという脅迫に、江戸は渋々〝消去刑〟を正式な刑罰として受け入れざるを得なかった。
おかげで健一は、知り合った億十郎や、源三の記憶から、村雨剣鬼郎の思い出と共に、抜け落ちてしまった。これから健一は、新たな人生を江戸に築き上げなければならない。
「健一、この台本では、第一幕と、二幕の間に暗転が入るわね。その間に、衣装替えを済ませておきたいわ。それで相談なんだけど……」
台本を手に持って、永子がいつものように、きびきびと話し掛けるのを、健一は手を振って止めた。
「後にしようぜ」
永子は何か言い掛けたが、肩を竦めて健一と共に、楽屋へ戻った。一緒に、帰るつもりなのだ。
全く一秒だって、永子は仕事から離れさせてくれない。まあ、それが永子の存在意義でもあるのだが。
楽屋で健一は永子と帰り支度をして、ぶらぶらと月村座の建物から、二人連れで外へ出た。
空はようやく、暮れかかり、西の空が赤みが差している。夕日に雲が金色の輪郭を輝かせ、江戸町人たちが、のんびりと、そぞろ歩いている。
村雨剣鬼郎が住処にしていた家を、健一は自宅にしている。自宅へ向かう健一は、夕暮れの中、見覚えのある人影を認め、立ち止まった。
「やあ、月村氏。お永殿」
立っているのは、大黒億十郎だった。相変わらずの、江戸NPCには珍しい巨体を、旅支度に包んでいる。
「どうも、お久し振りで御座います」
億十郎の隣に、源三が同じく、旅支度をして立っていた。永子は二人に向かって、手早く挨拶して話し掛けた。
「その格好は、いよいよ廻国ですの?」
永子の言葉に、億十郎は満足げに頷いた。
以前の記憶から、健一と永子の存在が抜け落ちた後、億十郎は改めて二人らと付き合うようになっていた。
剣鬼郎の下働きを勤めていた源三は、いつの間にか億十郎の下僕の位置に就いていた。剣鬼郎の記憶を喪失した源三は、暫く江戸を彷徨っていたらしいが、その源三に声を掛けたのが億十郎である。
「拙者、ようやく関東取締出役のお役につき、この度は、健一殿に御報告にと、参った次第で御座る」
関東取締出役──俗に八州廻りと呼ばれる。
片岡外記により、億十郎がこの役目に就くよう、根回しがされたのである。御家人の三男坊である億十郎にとって、役に就くのは望外の幸せであった。
億十郎は健一の記憶は失くしているが、薄々健一の存在が、自分に八州廻りの役目が回ってきた理由であると察して、口には出さないが恩義を感じているらしい。
「お気をつけて……」
口下手な健一は、精一杯の労わりの言葉を掛けた。億十郎は深々と頭を下げ、源三を伴い、歩き去った。




