四
江戸に戻った健一と永子は、戸惑いを経験した。
まずは落ち着く場所を求め、浅草にある剣鬼郎の邸を目指した。剣鬼郎の自宅を、二人は当座の住処としているからである。
が、剣鬼郎の邸には、人気がなく、静寂が支配しているだけだった。健一が「御免ください!」と声を張り上げても、誰一人として出迎える者はいない。
剣鬼郎が不在でも、源三はいるはずだと思ったが、その源三の連れ合いもいない。完全に、無人である。
「留守かしら?」
永子が疑問を口にしたが、留守というより、空き家といった感じであった。
健一は「さて」と腕を組んだが、良い考えが浮かぶわけもなく、ぼんやりと立っているだけだ。
「村雨座に行ってみよう」
ようやく目当てを思いつき、健一は永子に提案した。永子は健一の思いつきに賛成した。
「そうね……」
永子は賛成したが、眉が微かに顰められている。
村雨座は、すぐ近くだ。
急ぎ足になって向かうと、新たな驚きが二人を出迎える。
「あれっ?」
村雨座の建物を見上げ、健一は首を捻った。
「剣鬼郎の人形がないぜ」
以前は村雨座入口に聳えていた、村雨剣鬼郎を象った巨大な人形が、どこにも見えない。
「それだけじゃないわ。看板がないわ」
永子の指摘に、健一は入口の看板があった場所を見上げた。
確かに「村雨座」と書かれた看板が、ない。それに、あれほど大量にあった、剣鬼郎の芝居を宣伝するための幟とか、興行表などが、すっかり取り払われている。
健一は、村雨座の前を通りかかった一人の娘に、声を掛けた。娘の顔を見て、健一は思わず安堵の声を上げていた。
「あんた、お仙ちゃんだね!」
剣鬼郎が企画した「別嬪選別大会」に出場した娘である。
「はい、わたしは、仙と申しますが」
娘は驚いたように両目を見開き、立ち止まった。健一は急いで近づき、しげしげと娘を眺めた。
「憶えていないか? 村雨座で開催された『別嬪選抜大会』の時、俺が審査員になっていたのを」
「村雨座? 選抜大会?」
娘は訝しげな表情になった。健一は言葉を重ねた。
「ほら、村雨剣鬼郎が企画した……」
仙という娘は、ますます訝しげな表情になり、心持ち、身を引いた。
「その、村雨剣鬼郎と仰るお方は、何処の誰方で御座いましょう?」
「ええっ?」
今度こそ、健一のほうが驚いた。
「あんた、村雨剣鬼郎を知らないと、言うのかね?」
「はい。初めてお聞きするお名前です」
当惑に、健一と永子が顔を見合わせているうち、仙は一つお辞儀をすると、その場を離れていった。
健一は、ぴしゃりと額を叩いて呟いた。
「何が起きている? 何か俺たちの知らないうちに、とんでもない異変が起きている!」
「ここは本当に、あたしたちの知っている江戸仮想現実なのかしら……」
ポツリと呟いた永子の言葉を、健一は聞き咎めた。
「どういう意味だ?」
永子はぐるりと、眼鏡の奥の、瞳を回して見せた。
「馬鹿な思い付きよ! ほら、あたしたちが入り込んだ、あの黒い穴のようなもの。もしかしたら、ブラック・ホールかもと思ったの。安っぽいSFで、良くあるじゃない? ブラック・ホールを抜けると、並行宇宙へ飛び出す、なんて話が……」
健一は急に、自分の足下が頼りなく、底無しの穴に落ち込んで行くような感覚を憶えていた。
キョトキョトと、落ち着きなく周囲の眺めを確認する。
どう見ても、以前に目にした、江戸の町にしか見えない。不安に、拳を固め、カリカリと前歯で噛む。健一の、どうしようもなく不安に襲われた時の、悪い癖だ。
「次に行くのは、どこ?」
心配そうに、永子が問い掛けるので、健一は必死に知恵を絞った。
「とにかく、養生所で何が起きたのか、あれから後、どうなったのか知るのが肝心だな。もし、ここがパラレル・ワールドだとしたら、養生所の一件は違っているはずだ」
健一の返答に、永子は頷いた。
「ええ、その通りだわ。それじゃ、養生所へ行くのね?」
「いや」
健一は、顔を左右に振った。
「その前に、火盗改頭の、酒巻源五郎に会おう! 養生所で何があったか、もし在宅なら教えてくれるだろう」
火盗改頭の酒巻源五郎の屋敷は、浅草にある。
永子は感心したような「へえええ!」という声を上げた。
「結構、あんたも機転が回る時があるのね」
「珍しいものを見るような目で見るなよ!」
健一は永子の賛嘆に、擽ったい気持ちを抑えて肩を竦める。
しかし、酒巻源五郎の屋敷に到着した二人を迎えたのは、さらなる驚きだった。




