三
一瞬で、二人は暗闇に吸い込まれていた。
痛みは一切なかった。
いや、あらゆる感覚が遮断されていた。
暗闇で、ただ、健一の意識だけが、宙ぶらりんになって存在している。奇妙に、恐怖の感情はない。
これは〝死〟の世界なのか?
なぜか冷静に、今の状態を評価していた。恐怖もなく、焦りもなく、時間すら存在しない世界で、健一は漂っている。
感覚そのものが総て遮断されているので、漂っている感覚すらないが、健一はまるで気にしなかった。あらゆる感情が麻痺している。
──健一、健一──
呼びかける声に、健一はぼんやりとした意識を、急激に目覚めさせた。
──永子!──
──ああ、良かった……。〝そこ〟にいるのね?──
そこ? そこって、どこだ?
右も左も判らず、自分がどんな状態にあるのかも、判断ができない。
──〝ここ〟は、そもそも、どこなんだ?──
不思議と冴え切った意識で、健一は暗闇に問い掛けていた。場所の疑問もあったが、時間の感覚も怪しくなっている。
養生所の建物が存在した中心に吸い込まれたのは、一瞬前の出来事であるように思えるし、あるいは百年前に起きた事件であるようにも、思えた。
──判らない──
永子は、ぽつりと、健一の疑問に返事した。答える永子の声にも、まるっきり感情というのが欠落していた。
──俺たち、死んだのかな?──
──さあ、そんなの、どうでも良いんじゃない?──
──そうだな、そうかもしれない……──
なぜか、健一は、永子の投げやりな返答に同意していた。
そうだ、今がどうなっているのか、どうでも良い……。
再び、健一の意識は、ぼんやりとした状態に戻っていた。
それから、どれだけ時間が経過したのだろう。
不意に、健一は、暗闇に変化を認めていた。
あれは……。
光が見えた。
それは針の先ほどの小さな点であったが、べっとりとした暗闇の中では、ぎらぎらとした強烈な光点であった。
──光が見えるぞ!──
──あたしにも、見える!──
答える永子の声には、はっきりと興奮が感じられた。
──行こう!──
──うん!──
一瞬にして、二人の意思は同じになり、ぽつんと見えている光点に向かって、意識を集中させる。
その瞬間、移動の感覚が生じた。
前後左右、上も下も判らない世界で、光点を目にした瞬間、方向感覚が戻ったのである。
二人は歓声を上げ、光点に向かって突進していた!
見る見るうちに光点は視界一杯を占め、二人は全速力で近づいていた。
ざばあーんっ!
健一と永子は、水中に投げ出されていた。
がばがばがば……と、二人は冷たい水中に潜り、苦しさに藻掻いた。
「げぼっ!」
必死になって水を掻き、健一は水面にぽかっと顔を上げていた。見上げる空に、太陽が輝き、真っ白な雲がゆっくりと流れている。
「ぷはあーっ!」
隣に、永子が顔を出した。
健一は叫んでいた。
「永子、無事か?」
「あんたもねっ!」
二人は水面にぷかぷかと浮かびながら、なぜか笑い声を上げていた。
その時、伸びやかな声が降ってきた。
「あんたら【遊客】さんたちかね?」
声の方向を見ると、和船が近くに漕ぎ寄せてきている。日焼けした漁師が、満面に笑顔を浮かべ、水面の二人を覗き込んでいた。
「しっかし、あんたら【遊客】というのは、つくづく空から落っこちるのが、好きで御座いますなあ! 全く、何を好きこのんで、空から落っこちるので御座いますか?」
「あんたは……」
健一は呆れ顔の漁師を見上げ、呟いていた。
漁師の顔に、見覚えがあった。最初に江戸に入府したとき、品川沖で健一を救ってくれた、あの漁師であった。
漁師は、逞しい腕を伸ばし、二人の身体を船上に引き上げてくれた。
濡れ鼠になって、二人はガタガタと震えながら、舟の中で抱き合った。二人を見下ろし、漁師は話し掛けた。
「これからあっしは、深川へ戻る途中で御座いますが、いかがで?」
健一と永子は、黙って震えながら、小刻みに頷きを繰り返した。寒さで、歯がカチカチと鳴って、まともに答えられない。
ぎい──と艪が軋み、漁師は舳先を回した。
二人は漁師に送られ、江戸へと戻った。




