四
ひゅるるる……と、耳元で風切り音が、甲高く響いている。強風が健一の身に着けている着物を旗めかせ、急速な落下で、気分が悪くなる。
吐きそうだ!
が、こんな空中で吐寫したら、取り返しがつかない! 健一は必死に、嘔吐を我慢した。
「どうなっちゃうの?」
見ると、すぐ近くに、永子の身体を縛り付けている寝床が浮かんでいる。いや、同じく落下しているから、浮かんでいるように見えている。
だが落下している証拠に、永子の袂が、ばたばたと音を立てて、上に翻っている。
永子は、両目をまじまじと見開いて、近づいてくる地上を睨んでいた。
「心配するな……。もうすぐ、済む!」
振り返ると、反対側に剣鬼郎が浮かんでいる。剣鬼郎は悠々とした物腰で、表情には欠片も恐怖は浮かんでいない。
むしろ、楽しげに、地上を見下ろしていた。
健一は、ぐっと奥歯を噛みしめ、恐怖に耐えた。
と、眼下に、落下している他の寝床から、ぱっと丸い布が展開するのを見た!
落下傘だ!
がくん、という衝撃に、空を見上げると、健一の寝床からも、真っ白な落下傘が開傘しているところだった。
急速に、降下速度は落ちた。
ぶらーん、ぶらーんと落下傘に揺られながら、健一の寝床は地上へ近づく。
もう安心だ!
いや、そうでもないぞ……。
風に流され、健一の落下傘は、江戸の町から離れ、江戸湾に向かってゆく。このままでは、海に飛び込んでしまう!
辺りを見回すと、他の落下傘は、江戸の町へと無事に着陸してゆくところだ。永子の落下傘も、見る見る遠ざかる。
畜生……!
健一は、なんとか地上に戻そうと、悪戦苦闘するが、いかんせん、すでに気流は落下傘を海へと押しやっている。
剣鬼郎の落下傘も、すでに見えなくなってしまった。
健一は諦め、運命を待ち受ける。
真っ青な海面が、急激に近づく。
ざばんっ、と健一の寝床は、海面に突っ込んだ!
海中で手足を滅茶苦茶に動かすと、身体を縛り付けていた帯が、自然に解ける。多分、落下傘が開くと、解けるように仕掛けられていたのだ。
健一は金槌である。泳ぎは苦手だ。しかし、苦手だといってられる場合ではない。必死に手足を動かし、海面を目指す。
がばごぼげば……と、口中に塩辛い海水が一杯に、入り込む。
ぽかりと頭が海面から浮かんだ。
海面に、寝床から開いた落下傘が、だらりと浮かんでいるのが見える。ぷかぷかと浮かんでいる寝床に、無我夢中で縋りつく。
どうすればいい?
寝床に齧りついたまま、周囲を見渡す。ところが、目に入るのは波ばかりで、どちらが地上か、さっぱり判らない。
「そこのお人……、今、新居関所からいらした【遊客】かね?」
出し抜けに、伸びやかな男の声がして、健一は、はっと顔を仰向けた。
見ると、和船が近づき、捻り鉢巻の、漁師らしき江戸NPCが艪を動かして近づいてくるところだった。
日に焼けた漁師の顔には、溢れるような笑顔があった。
「どうれ! こっちへ移りなせえ!」
縄が投げられ、健一は必死にしがみつく。
ぐい、ぐいと力強く縄が引かれ、健一の身体は船に引っ張り上げられた。
はあはあと、荒い息を吐いて、健一は礼の言葉を口にする。
「い、命拾いしました……感謝いたします……!」
「なあに」と漁師はくしゃっと、顔を歪めた。
「町奉行様から、お達しが御座いましてな。そろそろ新居関所からの【遊客】が、江戸上空にいらっしゃる頃だから、海に落ちたお方をお救い申し上げるようにと。それで、見当をつけて、お待ちしておった次第で」
「な、なるほど……」
健一は、かちかちと奥歯を鳴らした。今頃になって、恐怖が身体中を震わせている。
漁師は、腰から煙管を取り出し、刻み煙草を詰め始めた。かちかちと火打石を器用に打ち合わせ、すぱすぱと吸い付ける。
悠然と煙を吐き出し、健一に向かって話し掛けた。
「しかし妙で御座いますなあ。【遊客】の方々は、何を好きこのんで、空の上から江戸に落っこちる真似をしたがるのか……」
「そうですな」と健一は相槌を打つしかない。
漁師は、のんびりと艪を操り、船を進ませた。
やがて船着場が見えてくる。
「ほれ、あれが品川宿で御座いますわい。それでは、御達者で!」
漁師は腕を挙げ、近づく船着場を指し示す。
船着場には、すでに永子と剣鬼郎が待ち受けていた。剣鬼郎は両腕を組んで、すっくと背筋を伸ばしている。
永子はまだ、空中に放り出された恐怖に、顔色は青白い。
船着場に健一が足を下ろすと、漁師は早々と舳先を旋回させ、海へと戻ってゆく。
見る見る遠ざかる船を見送り、健一は今になって、漁師の名前すら、尋ねなかった自分の迂闊さに臍を噛んだ。