七
健一たちは、お互いの顔を見合わせた。
どの顔にも、驚愕と困惑が溢れている。【遊客】の能力が封印されたという事実に、どう対応して良いのか、判断がつかないのだ。
「とにかく、ここは一旦、退却だ……。この状態が一時的なものか、どうか、今は判らないが……このままで対決するのは、自殺行為としか思えねえ……」
自信なさげに、二郎三郎がぼそぼそと呟くような提案をする。健一は同意した。
「賛成だ。どこか、相談できる場所へ……」
三人は頷き合い、そろそろと来た道を引き返し始めた。
気がつかなかったが、【遊客】の能力には、人一倍優れた視覚、聴覚、運動神経のほかに、猫類並みの、平衡神経も含まれる。
天井裏を、大の大人が三人、ごそごそと動き回っていても、下の連中にまるで感づかれなかったのは【遊客】が持ち合わせる、素晴らしい平衡感覚の賜物なのだ。
まるっきり、音らしき音も立てず動き回れた三人は、今は完全に普通の人間並みの神経しか持ち合わせていない。
実に不注意な物音を、三人は立てていた。まるで楽隊が通り過ぎるごとく、三人はどたばたと騒音を立てているが、全く自覚していなかった。
当然、下にいる全員の注意を引いていた。
道庵らしき男の、吠えるような声が響く。
「何者か、潜んでいるぞ!」
今度はきちんと、日本語で聞こえている。道庵が相手か判らないまま、天井に三人の存在を認めたので、仮想現実は自動的に翻訳機能を働かせたのだ。
ぐわぁんっ! と恐ろしい銃声が響き、天井板にぱっと穴が空いた。がちゃりと撃鉄が引かれる音がして、またもや銃声。
今度は近くの天井板そのものが、吹き飛ばされる。
空いた天井板から、道庵が拳銃を構えているのが見える。道庵が構えているのは、輪胴型の弾装を持った、連発拳銃である。
江戸仮想現実では、基本的に十九世紀の世界設定を許容している。従って、江戸にないものでも、当時すでに存在していた外国製の武器などは、持ち込むのは可能である。
道庵が手にしている拳銃は、十九世紀アメリカで、名銃と讃えられたコルト社製のピース・メーカーであった。
「お前たちか!」
道庵は、健一たちの顔を認め、せせら笑った。拳銃を構えたまま、命令する。
「降りて来い! 撃たれたくは、ないだろう? それとも俺の拳銃の腕を、験してみるかね?」
二郎三郎は舌打ちした。健一が二郎三郎に振り向くと、しょっぱい顔になって、肩を竦め、両手を上げる。
まさに、お手上げである。
「しかたないわね!」
永子はさっさと、率先して降りて行く。天井の垂木に手を掛け「やっ」と一声上げて、飛び降りた。
二郎三郎も真似をして、続く。
【遊客】の能力が喪失したにも拘わらず、二人は身軽であった。
三人の中で、健一だけが、優雅さとは程遠い。慣れない体技で、ぎこちなく飛び降りるが、案の定、着地した瞬間、尻餅をついてしまった。
床に降り立った三人を前に、道庵は余裕綽々、といった態度で出迎えた。
「これはこれは……開闢【遊客】の鞍家二郎三郎殿! そこのお嬢さんは、確か、お永さんとか記憶しているが。床に尻餅をついているのは、仮想体験時代劇の監督、月村健一さんだったな?」
憤然として、健一は立ち上がった。
道庵は、素早く三人の顔を順繰りに見て、質問する。
「誰が代表して、俺と話す? それとも、会話の必要はないかな?」
「俺が話す! 質問は、山ほどあるぞ!」
二郎三郎が一歩、前へ出て答えた。健一と永子に否やはない。
道庵は、銃を構えた手をだらりと下げ、聞く姿勢になる。もはや、銃に頼る必要はないと判断したのだろう。
「まあ、立ち話もなんだ。座れよ。茶くらいは、出す」
片手で、部屋の片隅を指し示した。そこだけは、来客を迎えるためか、煙草盆などが用意されている。
二郎三郎は恐れる様子もなく、頷き、ゆっくりと示された場所へ歩いていった。二郎三郎が動くと、ささっと手下たちが道を空け、気の利いた者が丸茣蓙のようなものを用意した。
道庵を中心に、二郎三郎の両隣に、健一と永子が座った。
改めて道庵と差し向かいになり、健一は相手の印象が、百八十度といっていいほど、変化しているのに気付かされる。
以前は、ただの江戸時代が好きで、養生所の総監役を喜んで務めている、少々ぼんやりしている善人としか思えなかった。患者の注射針の跡さえ、見逃す、うっかり者と健一は誤解していたのだが……。
今の道庵は、ゆったりと胡坐を掻き、顔には少し、面白がるような表情を浮かべていた。
道庵の背後には、手下というのか、部下というべきか、数人の配下が控えて、いつでも飛び掛かれるように身構えている。
「やはり、お前たちが、麻薬を作っていたのだな! 目的は何だ?」
座るなり、二郎三郎が鋭く、道庵に質問した。道庵は、部下が持ってきた茶を一服がぶりと啜り、黙って眉を上げて見せた。
「俺たちの作っているのは、正確には、麻薬ではない。あんたたちも悟っているが【遊客】の能力を封印するものだ。効果はそれだけで、麻薬につきものの、幻覚や酩酊作用は、一欠片もない!」
「なぜ、そんなものが必要なんだ?」
質問する二郎三郎の顔に、苛々した表情が浮かんだ。道庵はニッ、と笑って見せた。
「それ以前に、なぜ【遊客】は人間離れした能力が必要なのか? と、俺は問い返したいね。本当に、あんな能力が仮想現実に接続する【遊客】には不可欠なのか? それより、普通の人間として、江戸の生活を楽しむべきなんじゃないか、と思わないか?」
自分の言葉に、二郎三郎が考え込んだ表情を浮かべたのに力づけられたように、道庵の口調は説得するものになった。
「なあ、考えてみてくれ。この江戸仮想現実に接続する【遊客】は、誰も経験していない江戸時代を体験しに来る。それには、人間離れした【遊客】の能力は、邪魔なんじゃないか? 実際、東京都が設定した江戸仮想現実では、接続する【遊客】には特別な能力は、何一つ付与されていないというじゃないか」
二郎三郎は皮肉そうな笑顔になった。
「あそこは、正確な時代考証とやらで、自縄自縛になっているも同然だ。よほどのドMじゃなきゃ、三日といられないぜ! 俺は、この江戸仮想現実を、あそこのような雁字搦めにしたくはないね!」
健一はふと、思いついた疑問を口にした。
「あんたら、中国人なのか?」
健一の質問に、道庵はギクリと硬直した!




