五
養生所の建物は、仮想現実輻輳の影響を受けていない。従って、建物内を伝って移動すれば、敵の居場所に辿り着く理屈である。
理屈は確かに、そうなる。だが、言うは易く、行なうは難しである。
健一は験しに、さっきと違う障子を引き開けてみた。
途端に、むあっとくる熱気が頬を打つ。
鼻腔に、硫黄の匂いが充満した。
慌てて、障子をぴしゃりと閉じる。
一瞬、目に入ったのは、濛々と煙を吐き上げる、噴火口であった。多分、現在活動中の、活火山に繋がっているのだ。
これでは、脱出できない。
「どうやって移動するんだ?」
健一の質問に、二郎三郎は天井を見上げた。
「屋根裏から移動しよう。建物内だから、移動できるだろう」
口にするなり、二郎三郎はひらりと飛び上がり、柱にしがみついた。するすると柱を掴んで、壁を登る。まるで猿のような身軽さだ。
健一は呆気に取られ、思わずぽかんと口を開いて見上げていた。
かたり、と音を立て、天井板を剥がし、二郎三郎はするりと身体を屋根裏に滑り込ませる。
すぐに二郎三郎の顔が、外れた天井板の隙間から覗き、健一と永子に向かって口早に叱咤する。
「何やってんだ? 早く上がって来い!」
堪らず、健一は叫び返した。
「そんな真似、できないよ! 俺は忍者じゃないんだぞ!」
「ちっ!」と二郎三郎は舌打ちする。
「あんたら自分が【遊客】だって事実を、とんと忘れているらしいな!」
「あ!」と小さく叫んで、健一と永子はお互いの顔を見合わせた。
そうだ、自分たちは【遊客】なのだ!
健一は二郎三郎の真似をして、柱をがっしりと掴んだ。
指先に力を入れ、身体を引き上げる。
まるで自分の体重がなくなった如く、するすると登れる。【遊客】だけが持つ、驚異的な筋力が、指先だけで、己の体重を楽々と支えられるのだ。
無言で、永子も登ってきた。
二人は、二郎三郎の開けた、天井裏に身体を潜り込ませる。
暗い。健一は暗視モードにした。視界から色が失われ、白と黒のモノトーンに変化する。
所々、板の隙間から外光が鋭く差し込んでいるので、僅かながら光源はある。だから、暗視モードが有効なのだ。
ふと思いついた感想を、健一は口にしていた。
「【遊客】の能力は、泥棒にぴったりだな! 楽々、侵入ができるぜ」
二郎三郎は、苦っぽく、笑った。
「そりゃそうだ! 事実、江戸には何々小僧と名乗っている【遊客】の義賊が、何人も存在する。江戸NPCの同心や、岡っ引きじゃ手に負えないので、【遊客】を奉行所に勧誘しているが、中々、応じてくれなくてな」
「なぜだい?」
健一が問い返すと、二郎三郎はからっと笑って見せた。
「役人になるより、義賊になったほうが面白そうだと、たいていの連中が考えるからさ。役人になるよう説得した瞬間、そんな面白そうな役があるなら、自分がなろう……って言い出しかねないほどだ」
「なるほどね」
健一は頷いた。
二郎三郎は顎をしゃくった。
「無駄話は、これまでだ。急ぐぞ!」
「へいへい……」
健一は大人しく、二郎三郎の後に続く。
床を踏み抜かないよう、足を載せる場所を選んで這い進む。天井裏はあちらこちらに蜘蛛の巣が張っていて、たちまち三人は千切れた蜘蛛の糸だらけになった。
「もう、いやんなっちゃう……。江戸にはシャワーとか、ないのかしら……」
永子がぶつくさ、文句を垂れた。健一は「あるわけ、ないだろう!」とよっぽど言い返してやろうかと思ったが、言い争いになるので、やめた。
養生所の天井裏は、思ったより広い。しばらく無言で、三人はじりじりと進んだ。
不意に二郎三郎はぴたりと動きを止め、真剣な表情になった。
そのまま、耳を天井板に押し付ける。
顔を挙げ口の動きだけで「いたぞ!」と二人に告げた。
健一は緊張した。
敵がいるのか!
健一の無言の問い掛けに、二郎三郎は頷き、そっと板を滑らせ、隙間を作った。
健一は隙間に目を押し当て、下を覗き込んだ。
奴らがいた!




