四
ぱかっと、健一は目を見開いた。
近々と覗き込んでくる永子の顔を、健一は見上げている。永子の表情は、一杯に心配を浮かべていた。
健一は、ぼんやりと呟いた。
「永子──、君か?」
「良かった! やっと、こちらと同期できたわね!」
健一が自分を認めたのが嬉しかったのか、永子は笑顔になった。
「同期? 何が起きている?」
健一はぴょこりと、上体を起こした。
慌てて全身を弄るが、どこも怪我はないようである。痛みもなく、骨も折れていない。あんなに高い場所から落下して、不思議である!
「今、この瞬間、小石川養生所を取り囲む〝結界〟には、複数の仮想現実が錯綜している。つまり、ここは、幾つもの世界に通じる〝門〟になっているんだな。あんたは、その一つに落ち込んじまったんだ。同期したというのは、俺たちと同じ仮想現実に浮かび上がれたという、わけさ」
鞍家二郎三郎の声だ。
声の方向を見ると、二郎三郎が薄笑いを浮かべ、床に両脚を投げ出して座っていた。
そこで初めて、健一は自分の居場所を確認する余裕が生まれた。
以前、訪問したときに目にした、養生所の建物内に見える。柱や、床は磨き立てられ、飴色に光っている。
入念に掃除が行き届いているが、長年に亘って使い込まれていたらしく、柱などは角がすっかり丸く磨耗していた。
障子は総て閉じられていて、外は眺められない。
「あんたの説明、良く判らないんだが……」
二郎三郎に向かって問い掛けると、相手はいつもの謎めいた笑いを浮かべて障子を指差した。
「開けてみろ」
言われて健一は立ち上がり、手近の障子に近づいた。手を掛け、二郎三郎を振り返る。二郎三郎は、薄笑いを浮かべたまま、黙って健一を見上げていた。
健一は思い切って、障子を力一杯、引き開けた!
「わっ!」
目にした光景に、健一はぎょっとなって、凍りついた!
真正面から、突風が吹き付けてくる。突風には細かな氷が混じり、室内をびゅうびゅうと荒れ狂った。
「早く閉めろっ! 凍り付いてしまわあ!」
健一は慌てて、障子をぴしゃりと閉めた。
目にした光景に、喘いだ。
障子を開いた瞬間、視界一杯に広がったのは、一面の氷原だった。同時に、殴りつけるような冷気が、健一の顔を襲っていた。氷原の遥か地平線近く、天を突き刺すような鋭い形をした、針葉樹が並んでいる。
凶暴な冷気は、江戸のものではなかった。どこか異国の風を、健一は感じていた。
「い、い、今のは、何だっ?」
「さあな、江戸の風景じゃないってのは、確信できる。恐らく、蝦夷、樺太、黒竜江などの極地を再現した仮想現実だろうな」
「何だって? ここは江戸仮想現実じゃ、ないのか? 何だって、極地が出てくるんだ?」
度を失い、健一は捲し立てる。どういう理由か、今の状態が、二郎三郎に責任があるような口調になっていた。
「さあな。要するに、混線しているのかもしれないな。あっちこっちの仮想現実が混じり合っているらしい……」
健一は、がっくりと座り込んだ。
「養生所に潜んでいる、麻薬組織が仕組んだ結果なのか? こんな混乱を作り出して、何を企んでいるんだ……?」
二郎三郎は渋い表情になって、何度も顔を左右に振った。
「判らん。どうも常軌を逸しているとしか、表現できねえ……」
今まで二人の遣り取りを、黙って拝聴していた永子が口を開いた。
「というより、悪ふざけとしか、思えないわね。連中はどうも、悪ふざけが、徹底的に好みらしいわ」
ふらり、と二郎三郎は立ち上がり、ぼそりと呟いた。
「全く、悪ふざけだな! 俺は本気で、怒ったぞ!」
健一は、はっとなって二郎三郎の顔を見上げた。
二郎三郎は口を固く引き結び、腕組みをしたまま突っ立っていた。表情は厳しい。その顔つきは、健一が始めて目にするものだった。
ゆっくりと、二郎三郎は顔を上げた。
「とにかく、連中の居場所を突き止めねえとな……。そうなったら──対決だ!」
二郎三郎の言葉には、静かな闘志が感じ取られ、健一は思わず身震いをしていた。




