三
歩けども、歩けども、一向に養生所の建物は目に入っては来なかった。
どのくらい歩いたろうか。
健一の記憶によれば、すでに建物が視界に入ってもおかしくはない距離を、延々と歩いている。
それなのに、目の前の風景は、相も変わらず、熱帯の木々が鬱蒼と茂る、密林である。
おかしい……。
健一は焦り出した。
もしかしたら、健一は、知らぬ間に、本当の熱帯地方へ転移していたのかも……。ここは、正真正銘の、熱帯雨林なのか?
じわじわと恐怖が込み上げてくる。
たらたらと、蟀谷から汗が顎先に滴り、地面にぽたぽたと落ちている。
それだけではない。首筋、背中、胸と、とにかく全身のいたるところから汗が噴き出していた。
じっとりとした汗で、着物が重い。一歩、足を進めるだけで、湿った着衣が身体に纏いつく。それでいて、健一は、全身を貫く冷え冷えとした恐怖を感じていた。
「おお──い……! 誰か、いないのか……?」
無益な試みと思いつつ、つい叫んでしまう。
どうせ、誰も応えてはくれないのさ……。
が──!
「健一──」
声がする!
あの声は、永子のものだ! 健一は狂喜した。
「永子! 君か?」
「健一──」
応える永子の声は微かで、方角も判らない。
すぐ側で聞こえているようなのに、妙に頼りない。
健一は走り出した。
足下はふかふかとして、走り難い。それでも健一は、誰かを目にしたい一心で、無我夢中で走る。
「どこだ? どこにいる?」
狂気のように周囲を見回し、つんのめるように足を急がせる。壁のように立ち塞がる樹木が邪魔で、うまく走れない。
「落ち着いて、健一!」
すぐ耳元で、永子の声が響いた。
「どこに、いるんだ──っ!」
焦燥に、健一は絶叫していた。叫びながらも、足は一瞬も止まらない。完全に、健一は我を忘れていた。
地面を跳ね、目の前に現われる枝を振り払い、全力で進む。
もう、どこへ向かっているのか、自分が何をしているのかも、判らない。ただただ、機械的に手足を動かしているだけだ。あるのはたった一つ、前へと突き進む意思だけだ。
平常心は、健一の心から、完全に蒸発しきり、一匹の獣として、密林を走破していた。
!
不意に足元の感覚が失われ、健一は下を見下ろした。
健一は、空中にいた。
急激に切れ込んだ崖に気付かず、健一は飛び出していたのである。
「うひゃああああっ!」
喚きつつ、健一は落下していた。
ひゅうひゅうと風きり音が、耳元で聞こえる。恐ろしく長い距離を、健一は落下していた。ぐんぐんと迫ってくる地面を、健一は恐怖を込めて、見詰めた。
暗黒。




