三
億十郎は、暫し呆然としていたようだった。それでも、大きく息を吸い込み、立ち直った。
「これは……健一殿に、お永殿、鞍家殿のお三方では御座いませぬか!」
一気に喋って、階段下に蹲るようにしている源三に気付く。
「そちは──源三と申したな?」
「へい、大黒の旦那も、お変わりなく」
源三は、何事もなかったかのように、頷いた。表情は水を打ったように、静かである。この中で、一番冷静なのは、源三かもしれないな、と健一は密かに思った。
二郎三郎が、ゆらりと億十郎に近づき、声を掛けた。
「どうした風の吹き回しだえ、億十郎」
「いや、それが……」
億十郎はちょっと顔を赤くして、頭を掻いた。
「横浜で、あのような醜態を晒し、面目も御座いませぬ。自宅まで二郎三郎殿に、介抱して頂き、感謝の限りで御座る」
そこで改めて億十郎は二郎三郎に向き直り、深々と頭を下げた。二郎三郎は持て余したように、懐手になって首を竦める。
「よせよ! お前さんの悪い癖だ。一々、そう馬鹿っ丁寧に礼を言われると、こっちが、こそばゆくならあ! それで、何でこっちまで出張ってきたんだ?」
「はっ!」と、相変わらず億十郎は四角四面に会釈すると、説明を始めた。
「自宅で目覚めた後、これではいかぬと、片桐様のお屋敷に伺い、これからの方針を相談した次第で御座る。片桐様の示唆により、こちらに参った次第で御座る」
「ふうん」
二郎三郎は頷き、渋面になった。
「やはり、剣鬼郎は火付盗賊改に、お預けのまんまかえ?」
億十郎は軽く頷いた。
「左様で御座る。本来ならば、剣鬼郎殿は、小伝馬町の牢屋敷に入牢の処分で御座るが、生憎剣鬼郎殿は【遊客】で御座る。江戸の人間に、【遊客】を無理矢理、拘引するのは、叶わぬ次第。従って、相変わらず火付盗賊改屋敷内に、留め置かれており申す。一日中、夜中も番士が剣鬼郎殿を見張って、【遊客】得意の脱出を阻止しておりますな」
後で健一は知ったのだが、放火のような重大犯罪には、小伝馬町で代々石出帯刀を襲名する牢屋奉行が、直々に拷問する決まりである。もちろん、自白強要のためだ。
しかし江戸NPCが、【遊客】を拷問するのは不可能である。【遊客】の気迫により、拷問する前に、追い払われるか、気絶するかである。つまり、今のところ、剣鬼郎の肉体は無事である。まあ、ドSで、拷問マニアの【遊客】が牢屋奉行になっていなければ、の話であるが。
だが……。
健一は苛々してきた。
「二郎三郎さん、どうして剣鬼郎は火付け盗賊改に捕まったままなんだ? 剣鬼郎のファンだと偽った【遊客】が、火事を起こしたのは明らかだろう? 剣鬼郎に、何の責任があるんだ?」
二郎三郎は否定の意味で、何度も首を横にした。
「いや、健一。江戸では、たとえ犯人であると知らなくとも、使用人の責任は、雇用者に全面的に問われるお定めとなっている。今回の場合、剣鬼郎と犯人たちは、同じ【遊客】であるという問題がある。知らなかったでは、済まされない事態なんだ」
「それじゃあ……!」
健一は、ごくりと唾を呑み込んだ。江戸では、火事の処罰は、火炙りだという。このままでは、剣鬼郎は火炙りにされてしまうのだろうか?
二郎三郎は考え考え、答えた。
「まあ、特別に【遊客】として、多少の情状酌量も有り得ないわけじゃない。【遊客】の身分を考え、切腹という処分もあるな」
健一の顔色を見て、二郎三郎は軽く笑った。
「何でえ、切腹というのは、相当に軽い処分だぜ! とにもかくにも、武士として処遇されるんだ。第一、葬式を出せる。死罪には違いないが、江戸では死刑にも段階があるんだ。火炙りなんざ、真っ黒焦げの死体になる上に、葬式も出せねえ」
健一は、がっくりと肩を落とした。
「もっと軽い処分はないのか?」
「死罪でなければ、伊豆への遠島で済む可能性も、絶無とはいえねえ。その場合、〝ロスト〟前に監視が外れ、剣鬼郎が自力で現実へ帰還できるかもな。もう、二度と江戸仮想現実へは再接続できないが、火炙りになるよりは、マシだな」
そこまで喋って、二郎三郎は厳しい表情を見せた。
「だが! それでも、剣鬼郎を騙していた、麻薬組織を白日の下に晒す、というお手柄を手土産にしないと、まあ、無理だ! 俺も、剣鬼郎の火炙りなど、絶対に、目にしたくはないからな!」
健一も、それには全面的に同意見だ。健一自身、現実世界への帰還は永遠に閉ざされてしまっているが、もし剣鬼郎の、火炙り刑が実施されたら、さぞ寝覚めは悪かろうと思われた。
二人の遣り取りを、億十郎は黙って聞いているだけだ。その表情には、何の感情も浮かんではいない。
江戸NPCとして、二郎三郎の説明は、常識なのだろうと、健一は推察する。これから健一も、江戸町人の常識を、色々身につけなくてはならない。
「ところで……」と、二郎三郎は億十郎に向き直り、話題を変えた。
「お前さん、俺たちより先に到着していたんだろう? 何か、手懸りになるようなものは、見つけたかね?」
「左様」
億十郎は重々しく頷いた。
「このようなものを、手に入れて御座る」
懐に手を入れ、何か冊子のようなものを取り出す。二郎三郎は、呆れたような声を上げた。
「どこで、そんなものを見つけたんだ!」
億十郎は、舞台奥を指差した。
「あの辺りで、見つけ申した。最初は、村雨座の台本かと思い、見過ごすところで御座ったが、少々気になったので、拾って中身を確かめたので御座る。拾い読みしただけで御座るが、健一殿のお名前が出てきたので」
「俺の?」
健一は意外な場所で、自分の名前が出たので、少々面食らった。
二郎三郎が、黙って健一へ顎をしゃくる。億十郎は一歩、前へ出ると、手にした冊子を手渡す。
「何だ、こりゃ……本当に台本じゃないか」
意外な中身に、健一は呆れ声を上げた。
渡されたのは、確かに台本である。しかし江戸風ではなく、現実世界から持ち込んだかのように、活字になっている。表紙には『村雨剣鬼郎百番勝負』とタイトル、副題に『大江戸麻薬蔓延危機之巻!』とあった。
ぱらぱらと頁を捲ると、確かに仮想体験劇のための、シナリオである。
しかし舞台下では明かりが乏しく、何が書かれているか、読み辛い。そうと察したのか、二郎三郎が口を開いて提案する。
「ここは暗いや、上へ登ろう」
全員、賛成して舞台へ上がる階段を登ってゆく。
舞台に上がると、客席吹き抜けになっている明り取りから、昼間の光が差し込んでくる。
これなら、充分に明るい。江戸の劇場では、通常太陽光を利用するため、屋根のような光を遮る構造物は作らない。
明るい日差しの下、健一は黙って、手渡されたシナリオを読み進めた。他の四人は、健一が読むのを、じっと押し黙って見守っている。
読み進めるうち、シナリオを掴む健一の指先が、微かに震え始めた。
怒りのためである!
読み終わった健一は顔を挙げ、全員を見渡した。
健一の表情を見て、二郎三郎が問い掛ける。
「何が書かれている? あんたの顔色から、相当、驚くべき内容らしいが」
「ああ」
健一は大きく息を吸い、必死になって声が震えるのを整えた。
「ああ、全く、驚くべき内容さ! いや、俺たちを、とことん、馬鹿にした内容と言っていい! 畜生!」
健一は怒りのあまり、手にしたシナリオを、思い切り床に叩きつけた!




