二
村雨座へ歩く途中で、しきりに永子は健一に話し掛けてくる。
「向こうで、あんたと話し合ったのよ。あっちの健一は、何が起きたか、さっぱり判らないって言っていたわ。無理もないわね、最後の記憶が、こっちへ接続するため、仮想現実接続装置に繋がった瞬間だもの。まる一日が経ったなんて、信じられない様子だったわ」
つまり現実世界での、月村健一である。ひっきりなしに喋り捲る永子に、健一は「ああ」とか「うん」とか、生返事で答える。
「で、ね、あたしが、こちらでのあんたに起きた身の上について、説明したの。健一は──ああっ、つまり、あっちの健一──は、納得したみたい。こっちで撮り溜めた記録を使って『剣鬼郎百番勝負』新作を、編集するつもりらしいわ。ついては、あんたに了解を取ってくれと頼まれているの。ま、形式的だけど、同じあんただもんね!」
健一は、かったるく「ああ、判った」と短く返事した。
全くもって、かったるい。返事をするのも面倒だ。できたら、今すぐに、永子の目の前から消え失せてしまいたい気分である。
そんな健一の態度に、永子はようやく気がついたようだ。探るような目つきになって、話し掛ける。
「どうしたのよ? 何か、変だぞ!」
健一は、プイと横に顔を逸らした。
まともに返事する気にもならない。
俺が〝ロスト〟したっていうのに、こいつは能天気に現実世界での、仕事を平気な顔で持ち込んできやがる……。
そりゃ、永子は有能なプロデューサー様だ! 今までも、何度も永子に助けられたか、数限りない。他人との交渉については、健一はまるで苦手なのだ。永子はそんな健一の交渉役として、際立った活躍を見せた。
それなのに、今の俺の気持ちを、ほんの少しも察してはいないようである。
もう、現実世界へは、二度と、絶対に、金輪際、未来永劫、健一は戻れないのである!
二郎三郎に反論したように「お前も〝ロスト〟してみれば判る!」と言い放ちたい。
しかし永子はすぐさま、健一の予想もつかない方向から、反撃を開始するだろう。健一の拙い議論では、反論不可能な緻密な論理と、隙のない雄弁で、コテンパンにやられるに違いない。
今まで何度も、健一は永子の逆襲を経験していたから、無駄と知り抜いている。
だから、黙っている。黙っているだけが、唯一、健一の取れる有効な作戦であった。
永子は、微笑んだ。
健一がギョッとなるほど、永子の微笑みは優しいものだった。健一が初めて目にする、永子の微笑である。
まるで慈母のような笑み。
「心配しなくて大丈夫! きっと江戸での暮らしは、楽しいものになるわ! あたしが保障する!」
永子は歌うように呟くと、朗らかな笑い声を上げた。
健一は何だか、落ち着かなくなった。
いったい、永子は何を言いたいのだろうか? 再接続してから、永子の態度は変だ!
何が〝現世〟であったか知らないが、妙に陽気である。それが何だか、健一には不気味に思えてならない。
気がつくと、健一らは、村雨座前へと到着していた。入口には相変わらず、巨大な剣鬼郎の像が聳え立ち、辺りを睥睨している。
だが、村雨座そのものは、閑散としていた。いつもなら、剣鬼郎を一目でも見ようと、若い娘たちがわんさかと集まっているはずなのに、入口には誰も見当たらない。
客を呼び込む声、村雨座の、あちこちで上がる歓声、ざわめきが一切、聞こえてこない。聞こえるのは、微かな風音のみ。
「まるで墓場だな」
二郎三郎が、無遠慮な大声を上げた。二郎三郎の大声に、健一は思わず飛び上がった。
源三は、二郎三郎の言葉に、苦い顔を見せたが、それでも何も言わなかった。
ほんの少し、空気にいがらっぽい焦げ臭い匂いが漂っている。二日前の、火災の匂いである。
炎は消えたが、木材には、まだ焦げ臭い匂いが残っているのだ。
火災が起きた小屋の残骸は、ほとんど残っていない。木組みに、莚という構成なので、火災になると、ひとたまりもない。
「舞台の裏手を俺は探ったんだ。火元らしく、一番酷く焼けていた。しかし、鍋、釜の類が、やたら残っていたな。多分、薬を抽出するために使ったんだろう」
二郎三郎が、喋りながら案内する。二郎三郎の言葉どおり、あたり一面、真っ黒に焼け焦げている。
裏手から舞台奈落へ通じている。ここは焼け残っていて、芝居に使う大道具や、書き割りが残っていた。書き割りには煤が一面にこびり付いていて、健一が指でなぞると、指先が真っ黒になった。
天井は低く、健一たちは這うように進んで行く。
先頭を二郎三郎が進んでいた。
と、その歩みが、不意にピタリと止まった。二郎三郎の背中に、健一が声を掛けようとした瞬間、二郎三郎は右手をさっと動かし、掌で制止する。
「誰かいる! 喋るな!」
小声で命令する二郎三郎の顔は、真剣だった。健一は、思わず永子の顔を見た。永子は無言で、頷く。
「あっしが様子を見てまいりましょう」
するすると源三が前へ出て、二郎三郎に申し出る。二郎三郎は源三に頷いた。
源三が腰を屈めた格好で、先へと進んで行く。合気術を修めた成果か、足音は一切、立てない。まるで忍者だ。
舞台に続く階段に源三が足を掛けた刹那、上の方向から、鋭い気合が降ってきた。
「そこに隠れているのは、誰だっ! 正体を現さぬと、こちらから参るぞ!」
聞こえてきた大声に、二郎三郎は顔をくしゃっとさせて、大笑いする。
「なんだ……知り合いだぜ!」
「知り合いって、誰だ?」
健一が問い掛けると、二郎三郎は肩を竦めた。
「ほれ、相手から、こっちへ来るぜ!」
二郎三郎が顎をしゃくると、階段をドスドスと音を立て、一人の侍が下りてくる。
江戸NPCには珍しいほどの巨体、腰の刀の鯉口を切り、用心深い足取りで階段を下りて、途中で立ち止まった。
その姿を見て、健一は思わず、歓声を上げていた。
「何だ! 誰かと思ったら……」
大黒億十郎だった!




