一
横浜から、浅草に戻るには、時間が掛かる。
猪牙舟を頼んだのだが、それでも浅草寺近くにある剣鬼郎の自宅に辿り着いたのは、昼過ぎになっていた。
何しろ、現実世界と違って、どこへ行くにも歩くか、舟、駕籠、人力車、自転車などを使うしかない。
畜生……〝ロスト〟していなければ、現実世界へ一旦ひょいっと帰還して、再接続をすれば、あっという間なのに……と、健一は内心で歯軋りした。
これから先ずーっと、健一はこの江戸仮想現実の暮らしに適応しなくてはならない。
同行した源三は、剣鬼郎の自宅がどうなっているか、心配で居ても立ってもいられないらしく、珍しく焦燥を顕わにしている。
剣鬼郎の自宅に辿り着くと、戸口から三人の姿を認め、永子が飛び出してきた。
「ああ、良かった! いつ戻ってくるか、気が気じゃなかったわ!」
いかにもほっとしたように、焦眉を開いた永子に向かって、健一は尋ねた。
「何か、あるのか?」
「お客さんよ」
永子は顔を寄せてきて、囁いた。
健一は眉を顰めて見せた。
「客? 誰だ?」
「村雨座の皆さん……」
一瞬、訳が判らず、「えっ?」と問い返していた。
村雨座の関係者と聞いて、思わず【遊客】たちかと思ったのである。永子は「違う、違う」とばかりに、急いで手を振った。
「江戸NPCの、座員よ!」
健一と二郎三郎は顔を見合わせ「ああ、そうか!」と納得した。
村雨座に所属しているのは、【遊客】ばかりではない。江戸NPCの座員も存在する。むしろ、そちらが、人数としては多い。
舞台に出る役者ばかりではなく、道具方、奈落で働く下働きなど、裏方の人員も不可欠である。
源三と共に家の中に踏み込むと、座敷にずらりと座員が座り込んでいる。源三が顔を出すと、全員「あっ!」と声を上げ、一斉に立ち上がって駆け寄って来た。
「源三さん! いったい、どうなっているんです?」
「剣鬼郎様は……やはり、お咎めをお受けになられるので?」
「村雨座は、どうなるのでしょう?」
一遍にわあわあと問い詰められ、源三は両手を上げて叫んだ。
「お静かに! お静かに! 御近所の御迷惑になりますぞ!」
源三の制止に、やっと静かになった。それでも全員が立ったままで、必死の形相で源三を取り囲んでいる。
「このまま村雨座が潰れたら、あっしらは明日から、どうやって暮らしを立てたら良いのでしょうか……」
五、六十絡みの、皺深い顔つきをした老人が、両目をしょぼしょぼさせて呟いた。髪の毛はほとんど白くなっていて、僅かな頭髪を束ねた小さな髷を結っている。
老人の言葉に、その他の座員たちも、落ち着きを失って、お互いコソコソと目配せをし合っている。
源三は健一たちに振り向き、小さな声で囁いた。
「村雨座では、他の芝居小屋と違って、かなり良い給金を支払っております。たいていの芝居小屋で働く連中は、他に副業を持っておりますが、村雨座で働く皆は、他に稼ぎの術を持っていない者がほとんどで御座いますから、困り果てておるのです」
なるほど……と、健一は小さく頷く。江戸仮想現実、仮想体験劇、働く世界は違っているが、健一も芝居の世界に関わる者として、座員たちの困惑には同情を禁じえない。
二郎三郎が、ずいっと前へ進み出て口を開く。
「剣鬼郎が戻るまで、あんたらには自宅で待ってて貰おう。何、きっと、お咎めナシで、無事に戻ってくるさ! そうなったら、村雨座再開も、時間の問題だろう。さあさあ、帰ったり、帰ったり!」
二郎三郎は、猫の子を追い払うように、両手を頭の上に伸ばし、パンパンと何度も手の平を打ち合わせる。
どうやら【遊客】の気迫を使ったらしい。座員たちは一斉に「へへ~っ」と、頭を下げた。
健一は心配になって、二郎三郎に話し掛けた。
「おい、剣鬼郎がお咎めナシなんて、いつ耳にしたんだ?」
二郎三郎は「へっ」と笑い、囁いた。
「何、嘘も方便ってやつさ。村雨座の将来など、俺にも、てんで判らねえ」
健一は、二郎三郎の大雑把さに、少々呆れた。
それでも座員たちは二郎三郎の言葉に納得したのか、大人しく出口へと向かった。
全員が外へ出ると、二郎三郎は健一たちへ向かい、宣言した。
「さて、俺たちは手懸りを探しに、村雨座へ向かうとするかね?」




