六
目が覚めると、永子の不安そうな顔が覗き込んでいるのに、気付く。空は明るく、夜明け色だ。
パチパチと瞬きをすると、永子が安堵したように息を吐き出し、笑顔になった。ちょっと視線を上げ、声を上げる。
「気がついたわ!」
「やれやれ【遊客】だったから無事だが、もしお前さんが江戸NPCなら、即死しているところだぜ! 全く、何であんな無茶をするかねえ?」
鞍家二郎三郎の声だ。声は永子の視線の先から聞こえている。健一が首を回して声の方角を見ると、二郎三郎が懐手をして、健一を見下ろしている。
起き上がろうとすると、側頭部に錐を差し込むような、鋭い痛みが走った。
「つつつつ……!」
呻くと、永子が顔を近づけ囁く。
「大丈夫? 無理しちゃだめよ」
思わず手を蟀谷に当てると、はっきりと瘤ができている。触れると、ずきんと痛みが走る。
立ち上がろうとするが、くらくらと目が眩んで、諦めた。
二郎三郎が膝をついて、健一を心配そうに見た。健一は二郎三郎に尋ねた。
「何があったんだ?」
「これだよ」
二郎三郎は答えると、手に握り拳ほどの、石を持ち上げて健一に示した。
「こいつが、お前の蟀谷に命中したんだ。敵は弩を使っていたらしいな。弩は弓だけじゃなく、小石なんかも発射できる。恐らく、矢が種切れになって、こいつを代わりに発射して、お前さんを倒したんだ」
健一は、ぞっとなった。二郎三郎の握っている石は、相当でかい。こんなのが蟀谷にぶち当たって、よく生きていられたものだ。これも【遊客】という超人的な生命力のなせる結果であろうか。
それを尋ねると、二郎三郎は深く頷いた。
「まさに、その通りだ。普通の人間なら、あっけなくあの世行きだろうが、【遊客】ならひどい頭痛くらいで、無事に目覚められるのさ。しかし、それが幸運か、そうでないか、判らんが」
二郎三郎は言葉を濁す。
「どういう意味だい?」
「いや」
二郎三郎は軽く頭を振ると、立ち上がった。ちらっと健一を見下ろし、声を掛けた。
「立てるか?」
健一はもう一度、試してみた。
今度は楽々と立ち上がられた。もう、眩暈も一切、感じない。蟀谷の痛みも、急速に薄らいでゆく。これが、【遊客】の驚異的な回復力だ。しかし、はっきりとした鈍痛は残っている。
健一は肝心要な質問を思い出した。
「そうだ! あの銀二って奴は?」
「死んだよ。即死だった」
二郎三郎は苦い顔になった。
「今、役人を呼びに、源三を走らせた。おっつけ町奉行所から、検使与力が来るだろう。死体を見るかね?」
健一は、思わずぶるっと顔を左右に振った。
「冗談じゃない! そんな趣味はないよ!」
「ふむ。まあ、いいだろう。しかし、敵は遮二無二、俺たちに向かってくるな。どうにか今回はやり過ごせたが、次はどうなるか? いいかね、月村さん!」
二郎三郎は真面目な顔つきになり、大声を上げた。わざわざ、健一の苗字を口にする。
「今度こそ、俺の命令は、絶対に従うと約束してくれ! あんたは【遊客】とはいえ、この江戸仮想現実では素人同然。危なっかしくて、見ちゃいられねえ!」
「わ……判った……!」
健一は圧倒され、頷いていた。
永子が口を挟んだ。
「ねえ、鞍家様。銀二という男は【遊客】だったのでしょう? この江戸仮想現実で死ぬと、どうなるのです?」
二郎三郎は健一から顔を背け、ぼそぼそと答える。
「そりゃあ、強制切断が起きるだろうな。現実世界では今頃、銀二の本体が目覚めてキョトンとしているに違いない。強制切断だから、こっちで過ごした記憶は失う。なぜ自分が目覚めたか、首を捻っているだろう。まあ強制切断だから、丸一日は、再接続できない。俺たちを邪魔する真似は、金輪際できっこないから、安心だな」
「ふうん」
健一は相槌を打ちながら、ぼんやりしていた。
この強制切断という事態が、健一には、さっぱり感覚として掴めない。こっちでの分身は死体で残っているのに、本体は無事で現実世界で生きている状態は、理屈として判るが、やっぱり妙な感じである。
二郎三郎は健一に向かい、慎重な態度で口を開いた。
「おい、健一さん。あんた、現実世界へ戻っちゃどうだね?」
「えっ! なぜだい?」
「いや、現実世界へ戻って、再びこっちへ再接続すれば、あんたのデータは書き換えられるから、頭の怪我もすっかり治っている、って寸法だ。頭痛を抱えたまま、行動するよりマシだろう?」
二郎三郎は、なぜか健一から視線を逸らし、棒読みのように答えた。健一は不審を感じたが、まあ、二郎三郎の提案も、もっともだと思った。この頭痛が治るなら、再接続も止むを得ない。
健一は目を閉じた。
心の中でキーワードを唱え、仮想現実ウインドウを開く。視界にずらずらと、幾つものウインドウが開き、健一は現実帰還タスクを実行する。
〝仮想現実から現実世界へ戻りますか?〟
質問に「yes」を選択する。
健一は、目を見開いた。
相も変らぬ、江戸仮想現実の景色が広がっている。
二郎三郎の心配そうな顔。永子の「訳が判らないわ」と言いたそうな表情。
健一は、ぼそりと呟く。
「戻れない! ここに、江戸NPCがいるのか?」
二郎三郎は、ゆっくりと、首を振った。
「いいや、ここに江戸NPCはいない。俺たちだけだ」
二郎三郎の返答に、健一は叫んでいた。
「それじゃ、なぜ、俺は現実に戻れないんだ?」
「俺の心配が、本当に起こってしまったようだ。仮想現実で、気絶するくらい酷い衝撃を受けた場合、本体の心理的なダメージを避けるため、強制切断が起きる場合があるんだ」
恐怖に、健一の両膝がカクカクと笑った。すとん、と座り込みたくなりそうな真っ黒な絶望が、全身をがっちりと掴む。
「きょ……強制切断! そ、それって、もしかして……!」
「そうさ」
二郎三郎は、再び頷く。
「お前さんは〝ロスト〟したんだよ」




