五
背中で、二郎三郎が何か、制止の言葉を発したようだ。だが、健一は、てんで聞いちゃいなかった。
ただただ、ひたすら無我夢中になって、目の前の草叢に飛び込んで行く。
全身に活気が溢れ、気力は充実し、全身を動かす喜びに猛っていた。
俺は【遊客】だ!
針鼠の仙蔵との一件が、健一に自信を与えていた。あの時、人生でただ一度も喧嘩をした経験がない健一が、仙蔵の振り回す煙管を楽々と避けられただけでなく、足を絡げて、すっ転ばせたのである!
まるで、自分が剣術の達人になった気分であった。健一は【遊客】の能力に目覚めたのである。
江戸NPCとは格段の体力と反射神経を、【遊客】は与えられている。もし現実世界で【遊客】の能力があったら、即座にオリンピックの金メダルが狙えるであろう。
事実、全力で走る健一は、今までの人生で経験しなかった、激しく内から突き上げる力に、軽く酔ったようになっている。
身体が軽い!
脛を飛ばし、腕を振る健一は、自分がこんなに早く動けるなど思っても見なかった。
無論、【遊客】の力であるとは判っていた。それでもなお、今まで一度も感じなかった爆発的な体力に、正直、驚き入っていたのである。
そうか、運動選手とは、こんな感覚を味わっているのか……!
現実世界では、足も遅く、体力など、からっきりなく、学生のときは体育の時間が厭で厭で、逃げ出したかった。徒競走はいつもビリっけつで、マラソンの前日は、本気で自殺を考えたほどである。
目の前に溝がある。
それっ、とばかりに、健一は跳び越えた。多分、現実世界なら、溝の間隔を目にしただけで、諦めただろう距離だった。なのに健一は、軽々と跳び越えていた。
衝撃を膝で受け止め、頭を下げた瞬間、またしても「ひゅっ!」と風切り音。頭髪が、何本か、何かに触れた。
敵の矢が掠めたのだ! 頭を下げていなかったら、危なかった……。
突然に、健一は恐怖を感じていた。
そうだ、相手は、本気で健一を殺しに懸かっている!
銀二を口封じしたのも、そうだ。
しかし、二郎三郎が尋問に入ってすぐに「口封じ」とは……。あまりに定石通りで、健一がシナリオを担当したら、絶対に採用しない展開だ。
おっと、これは芝居じゃなかった! つい、健一の悪い癖で、何でも仮想体験劇『剣鬼郎百番勝負』に繋げて考えてしまう。
ざざざっ……と、草叢が動く。草叢は、丈の高い萱で、ほぼ健一の胸ほどある。見渡すが、敵がどこにいるか、さっぱり判らない。
ああ、そうだ! 俺は【遊客】だった。【遊客】の視覚に、熱感知モードがあったっけ……。
健一は視覚を調整した。途端に、健一の視界が、燃え上がる遠赤外線放射に包まれる。
温度が低い箇所から青、緑、赤、ピンク、白……と、熱の高い場所を示すために染め分けられる。健一の身体で剥き出しの皮膚は、温度が高いのでピンク色に染まっている。
見渡す限りの草叢に、ぽつぽつと、数箇所ほど赤く染まっている場所があった。多分、そこに敵がいるのだ。
距離が遠く、熱感知モードでは解像度が低くて細部までは見分けられない。だが、確かに人の形をしているようだ。
人影が立ち上がる気配がした。
何か構えている。
慌てて健一は、視界を暗視モードに戻した。
月の光を受け、人影は手に、武器のようなものを掲げている。弓に、がっしりとした台座が組み合わされている。
弩である!
西洋ではクロスボウと呼ばれる、機械式の矢を発射する弓だ。
健一は、さっと身を屈める。
三度、矢が飛翔する音。可能な限り低く身を屈めていても、矢が通過するとき、周囲の草が、ざざっと靡くのを感じた。
恐ろしい威力だ!
銀二の胸に、深々と刺さったのも当然。弩を引き絞るには【遊客】の体力と、筋力があってだ。普通の江戸NPCでは、弦を引くのさえ不可能なほど、強い弓だろう。
相手の弩は、連射ができない構造らしい。矢を射る間隔が長い。
健一はそろそろと身を屈めたまま、移動を開始した。確実な計画があるわけではない。ただ、じっとしていたら、相手の的になるだけと思ったのである。
地面は、じっとりと湿っている。夜露が集まったのか、足を下ろすたび、ぐちゃ……と微かな音がする。
はっ、はっ、はっ……。
誰の息だ?
ああ、俺だ……!
健一は、無意識に喘いでいた。口中が粘つき、額から大量の汗が噴き出している。
怖いのか?
そうとも、怖いさ……!
今すぐにでも、くるりと背を向け、大急ぎで逃げ出したいくらいだ。
なぜ、逃げ出さないのか、自分でも不思議である。
その時、健一の側頭部で、何かが爆発した!
ぐわあぁん! という衝撃に、健一は横倒しになって、夜空を仰いでいた。
そのまま、健一は気を失っていた。




