六
一歩前へ進み出て、健一は口を開いた。だがそこで、背筋の凍るような恐怖に、心臓を鷲掴みされた!
「ええと……」
モゴモゴと口の中で意味不明の呟きをしたまま、健一の額から、どっとばかりに大量の汗が流れ落ちる。
言葉が出てこない!
実は、仙蔵に会う前に、二郎三郎と額を突き合わせ、喋る内容を打ち合わせておいたのだ。
それが、一言も、口から毀れてこない。頭の中は、猛烈な空回りを続けているが、あれほど練習した内容を、すっかり失念している。
どうしよう……!
棒立ちになったまま、健一は、かつて仮想現実体験劇で、出演者が台詞を度忘れして立ち往生した光景をさんざん目にした経験を、思い出していた。
その時は、演技者の未熟さに、思い切り腹を立てて悪罵を投げつけたものだが、今、自分の身に降り掛かってきたのを、厭というほど、痛感していた。
完全に出トチである!
針鼠の仙蔵は、そんな健一を、訝しげな視線で見つめている。健一は「あー」とか「うー」とか、唸るだけだ。
「親分さん、こちらの月村健一の旦那は、口下手なんで御座いますのよ。代わりに、あたくしがお話しても、よござんすかしら?」
見兼ねたのか、背後から永子が、するすると前へ進み出て口を開いた。
助かった!
健一は、もう、全面的に永子に任せるつもりになって、肩の力を抜いた。永子は、二郎三郎と、健一の打ち合わせに居合わせたから、内容は完全に理解しているはずだ!
仙蔵は、関心なさそうに頷く。
「勝手にしな!」
永子はいかにも海千山千の女、という風情を作って顎を上げ、口を開いた。
「その前に、あたしらに座布団一つ、勧めないんですかあ? これが、客を迎える態度かしらねえ……」
健一は、ぎょっとなって永子を盗み見た。何て大胆な!
仙蔵は顔を真っ赤にさせたが、それでも鷹揚に頷く。
「江戸で座布団は、普通は使わねえが、あんたらは【遊客】だ。おい!」
仙蔵が右手の煙管を振ると、手下たちがいそいそと、二人分の座布団を持って駆け寄った。
永子はそっと、座布団を裏返して、腰を下ろした。健一も隣に座る。
仙蔵のアジトの床は、いたるところ、正体の判らない汚れで、足の踏み場もない。たったままの談判はしたくはなし、しかし、こんな床に座るのは気持ちが悪い……。そのために永子は、座布団を要求したのだろう。
「あたしら、江戸仮想現実で、色々、手を広げようか、なんて考えているんでござんす。親分さんは、こんな話、興味はありませんの?」
仙蔵は、片方の眉を、ぐいっ、と持ち上げて見せた。表情は無表情を保って、無関心を決め込んでいるが、目にはありありと興味が湧いているのが認められた。
「手を広げる? どうも話が見えてこねえなあ……。もっと、はっきりと口にしたらどうなんでえ! あんたら、何をしたいんだ?」
永子は、わざとらしく、目を伏せた。
「そうですねえ……。あたしの聞き込んだところによれば、この唐人町では、面白い薬が買える──そんな噂が流れているようですねえ……?」
仙蔵は、僅かに顎を引いて、用心深い顔つきになった。顎をぐっと噛みしめ、眉が寄せられた。
「薬? どんな薬だ! ここには、病人は一人もいねえぜ!」
仙蔵の態度に、健一は「あれ?」と思った。
永子の口にした「薬」とは、言うまでもなく麻薬を意味しているが、仙蔵の表情には、別の「薬」が念頭にありそうだ。
ちらっと、永子と健一は目を見交わした。永子は微かに頷いた。もう少し、この線で押すつもりらしい。
「へえ、病人は一人もいない──。それは結構ですこと。でも、もし病人が出たら、どうなさるおつもりですの? こんな所に駆けつける、お医者の心当たりがござんすか?」
仙蔵は、ありありと心中の苛つきを、表情に示し始めた。健一と永子の正体が判らず、不安を感じているのか?
「あんたら、薬が欲しいのか?」
仙蔵は低い声で尋ねる。
健一は緊張した。
仙蔵は取り引きに入るつもりだ!
「もちろんですよ! お江戸では手に入らない薬ならば、喜んで買い取りましょう!」
「ここには、ねえ……」
仙蔵は、ポツリと呟くように答える。永子は身を乗り出した。
「では、どこになら、御座いますの?」
仙蔵はゆっくりと腕を組み、上体を起こす。何事か、仙蔵の頭の中で計算が始まっているのか、かなり長い間、沈黙した。
健一と永子は、仙蔵の沈黙に耐えた。
ようやく、仙蔵は口を開いた。言葉と態度は、慎重さを装っていたが、抑え切れない興奮が感じ取られる。
「あんたら、こっちのお江戸には、新来らしいな。するってえと、関所で支給されるおあしは、まだ懐にあるってえ寸法だ。違うかね?」
永子は薄笑いを浮かべた。
「御名答! でも、こんな場所に、わざわざ持ち歩いたりしていませんわよ」
健一は我知らず、心臓が早鐘のように打っているのを感じていた。
二郎三郎は、仙蔵がこう出るだろうと予測していたが、ドンピシャリである!
新来の【遊客】が、関所を通過するときは、百両という、江戸NPCにとっては夢のような大金が支給される。
それは〝ロスト〟した【遊客】にとっても、喉から手が出るほどの大金だろう。〝ロスト〟して、悪人の仲間に入った【遊客】は、普通の江戸NPCと同じに、金が必要なはずだ……。
恐らく〝ロスト〟した【遊客】である仙蔵は、健一と永子が受け取った百両を狙ってくるはずだ……そんな予測をして、交渉するよう、二郎三郎は示唆したのである。
「俺があんたらに売る薬は、結構な値が張るぜ! しかし、江戸では、決して手に入らない薬ばかり用意できる。何しろ、西洋渡りだからなあ!」
「何だって!」
健一と永子は、同時に叫んでいた。
仙蔵の言葉は、重要な鍵を含んでいる。
西洋渡りの薬──それは、出島から手に入るという意味ではないか?




