四
「吉奴の住まいは、深川だ! 人力車を頼もう!」
二郎三郎が宣言して、健一は「今度は人力車か!」と感心するやら、呆れるやらでどうにも形容のしようのない複雑な気分である。
仮想現実の江戸には、本物の江戸にはない、様々な乗物(大名など、身分の高い人物が利用する駕籠を江戸ではそう呼ぶが、ここでは一般的な意味で使っている)が往来している。
先ほど使った自転車もそうだが、江戸の大通りを、がらがらと喧しい音を立てて通過するのは〝足蹴り木馬〟と呼ばれる、一種のスクーターだ。
前後に、直径一尺ほどの木製車輪を備え、使用者は地面を片足で蹴って進む。自転車に比べると簡便な作りで、主に飛脚に利用されている。
人力車のほうは、大八車をベースに座席を用意したもので、一度に五、六人が座れる。
前後に一人ずつ、車夫がつくのだから、駕籠と同じ要領だ。事実、駕籠舁きから人力車曳きに転職した連中も多いという。
健一は、仮想現実の様々な場面を「撮影」している。もちろん、【遊客】の特殊能力であるところの、見たままの景色を仮想現実の記憶領域に取り込む方法だから、無粋な撮影機などは必要ないのだ。
後で編集するとき、それら江戸仮想現実に特有の、様々な乗物をどう処理しようかと、健一は悩んだ。
消去するのは簡単だ。しかし、江戸の町に自然に溶け込んでいる自転車や、足蹴り木馬、人力車を見せたい欲求は、沸々として湧き上がってくる。
江戸町人や、武士階級は、伝統的な駕籠を利用しているが、江戸にやってきた【遊客】たちは、物珍しさも手伝って、大いに利用しているようである。
小石川から深川を目指す人力車に、健一、永子、二郎三郎、億十郎の四人が乗り込んだ。
途中、浅草寺近くを通ると、人だかりができている。
何だろうと、健一はキョロキョロと辺りを見回した。
「見なさい! 健一、火事よ!」
「えっ?」
永子が人力車から身を乗り出すようにして、空を指差す。指差された方向を見上げると、なるほど、空に一筋の煙が立ち上っている。
色からすると、火災の煙らしい。
方向から判断して……大変だ! 剣鬼郎一座である!
じゃーん、じゃーん……と、遠くから半鐘が鳴り響いている。
「どけ、どけ、どけーいっ!」
大声を上げて纏を肩に、火消しの一団がどどどっ、足音を蹴立て通り過ぎる。
健一は二郎三郎を見た。
「おい?」
健一が問い掛けると、二郎三郎は頷いた。
「うむ! この際だ、吉奴は後回しだ! おい、俥屋! あの火消しに従いて行け!」
「合点!」
二郎三郎の指示に、車引きはぐいっと、梶棒を回して方向転換する。
浅草寺裏手に回ると、お馴染みの巨大な剣鬼郎像が聳え、芝居小屋から盛大に煙が噴き出している。
人力車を停め、二郎三郎は「後で乗るから、ここで待っていてくれ」と早口に命じて、半金を渡した。
俥引きらは、恐縮して受け取り、汗を拭う。
健一らが駆け寄ると、入口で、剣鬼郎がぐったりとなって座り込んでいた。
駆け寄る足音に顔を上げ、近づく健一に気付くと「やあ」と弱々しく片手を上げた。
どうやら、参っているらしい。
「どうしたっ!」
健一が声を掛けると、剣鬼郎は憂鬱そうに首を左右にした。
「見ての通りだ。小火と言っていいんだが、後の始末が面倒だ……」
「後始末?」
剣鬼郎は力なく笑って説明する。
「芝居小屋は、浅草寺境内の中に入っているんだ。つまり、寺社奉行の管轄に入る。後で、きついお叱りを受けるだろうな」
剣鬼郎は「小火」と言っているが、健一にはかなりの火災と思える。「きついお叱り」で済めば儲けものではないか、と思った。
芝居小屋では、火消したちが大童になって、消火活動を続けている。
江戸の消火は、破壊消火と呼ばれるもので、延焼を防ぐため建物を壊すのが一般的である。
幸い、芝居小屋の周囲には人家は存在しない。火消したちはどんどん芝居小屋の骨組みを引き倒し、莚を引っ張って火元を消滅させるため、仕事を進めている。
億十郎が、のっそりと剣鬼郎に近寄った。
「剣鬼郎殿。火事の原因は、判り申すか?」
剣鬼郎は、ぼんやりと億十郎の四角い顔を見上げる。ゆるゆると首を左右に振って、呟いた。
「見当もつかねえ……! 火の気など、一切あるわけねえのに……」
「ふうむ?」
二郎三郎が腕を組んだ。
さて、何が二郎三郎の気になるのか? と健一は考え込んだ。




