一
剣鬼郎は、下働きの源三に、麻薬患者の広がりや、麻薬の入手経路を探索させるために自宅へ戻る。二郎三郎もまた、自分だけの探索行動に移るために、健一と永子と別れた。
別れ際に、健一は思わず感想を述べていた。
「随分とまた、ご熱心ですねえ!」
健一の感想に、二郎三郎は明らかに腹を立てた様子だった。むっと顔を強張らせ、健一を睨みつける。
「当たり前だ! この江戸は、俺たち開闢【遊客】が、心血を注いで完成させた世界なんだ。麻薬の売人などに、荒らされて堪るか!」
二郎三郎の怒りに、健一は大いに恥じ入った。どうも、自分は、要らぬ口を叩いて、他人を怒らせる悪い癖がある……。
踵を返し、大急ぎで立ち去っていく二郎三郎を見送る健一に、億十郎が静かに話し掛けた。
「健一殿。それでは、片岡外記様のお屋敷に参るといたそう。拙者が案内いたす」
億十郎は、健一の軽口に何か蟠りがあるとしても、一切、表情に表さない。相変わらず健一が戸惑うほど、丁寧な口調を保っている。
片岡外記の屋敷というのは、養生所の近くにあり、すぐに到着できた。億十郎が屋敷に挨拶すると、ほどなく外記の配下という、兄が姿を現す。
大黒億十郎の兄なる人物は、これが兄弟かと疑うくらい、似ていない。
弟の億十郎が六尺を越える巨体を誇るのに対し、兄は五尺足らずの体格。手足も細く、鉢開きの頭をした、吹けば飛ぶような身体つきだった。
広々とした額から、急速に顎は窄まって、逆三角形の顔に、そこだけは堂々とした鼻が鎮座している。色黒で、皺深い顔つきは、まるで老人のように見えた。それでも億十郎とは、五つ違いというから、まだ三十代であろう。
身につけている着物は、健一の目から見ても、粗末な綿服で、あちこちに綻びが見て取れた。いかにも草臥れきった、貧乏御家人である。
片岡外記の屋敷に案内された健一と永子は、屋敷の裏手にある離れで、億十郎と、兄の万十郎と向かい合った。
「大黒万十郎と申す。弟の、億十郎がお世話になり、忝い」
万十郎と名乗った、億十郎の兄は、慇懃な挨拶をしてくる。
「万……十郎様と仰るのですか?」
永子が思わず噴き出しそうになるのを、必死に堪えて尋ねる。万十郎は、そんな永子の様子に丸っきり頓着せず、頷いた。
「然り。父は千十郎と申す。拙者が万十郎、弟が億十郎。ま、順当な名付け方で御座る」
それでは兄弟どちらかに男子が生まれたら、「兆十郎」と名付けるのだろうか? さらには「京十郎」「垓十郎」……最後は「無量大数十郎」で打ち止めになるのか?
いかん! つい、ふらふらと埒もない考えに走る。もう一つ、自分の悪い癖だ……と、健一は自戒した。
とにかく健一は、すぐ自己反省をする。もっとも、すぐ忘れるのだが。
「兄上、ここに参ったのは、小石川養生所に収容されておる患者のうち、どうやら、麻薬中毒患者がおるらしいと判明いたしたので、御報告に参上いたしたので御座る。是非とも外記様にお目通りいたしたく、お願い申し上げる」
億十郎は健一と永子に構わず、一気に兄に向かって捲し立てた。億十郎の言葉に、万十郎は身を硬直させた。
「何と……。そりゃ、まことか? 小石川養生所に、麻薬患者──実に重大だぞ!」
億十郎は力一杯、頷いた。
「間違い御座らん。拙者、自分の両目で、しっかりと確認いたした。健一殿、お永殿両名も、証人で御座る!」
「うーむ! よし、暫し待て! 即刻、外記様に御報告を申し上げる」
慌しく立ち上がり、万十郎は渡り廊下へ出た。
急ぎ足になって、離れから姿を消す。足音が遠ざかってから、億十郎は太い息を吐き出した。
さすがに、億十郎のような剣客も、勘定方目付を拝命する相手には、緊張を隠せないのだろう。
やがて足音が戻ってきて、万十郎がひょこっと、顔を覗かせる。
「喜べ、外記様がお会いくださる!」
口調とは裏腹に、万十郎の表情は真剣で、にこりともしない。健一たちが立ち上がると、無言で先導のため、背中を見せて歩き出す。
外記と面会するのには、座敷へ一同が移動しなくてはならない。万十郎の背中を眺め、片岡外記とは、どんな相手だろうと、健一はぼんやり考えていた。
座敷に通され、健一たちは億十郎と、万十郎兄弟の後ろから桟の手前で膝をついた。
二人は【遊客】とはいえ、身分は町人である。本来なら縁側ではなく、地面に土下座しなくてはならない。
頭を下げて待つと、落ち着いた中年の男の声が聞こえてくる。
「その二人が【遊客】じゃな? 拙者が、片岡外記。目付である。面を上げよ」
健一と永子は、恐る恐る、顔を挙げた。
視界の中に、座敷からこちらを見ている、中年の侍が座っている。
身につけているのは、健一の目にも、贅沢な絹服で、細面であるが、整った目鼻立ちの侍であった。
これが片岡外記であろう。
外記は健一と視線が合うと、にやっと軽く笑い掛ける。
その瞬間、健一は悟っていた。
片岡外記は【遊客】なのだ!




