四
「何だか、妙な相談をしているみたいじゃあ、ねえか! まさか『剣鬼郎百番勝負』の打ち切りとは思えないが……」
出し抜けの大声に、健一と永子は、椅子の上で飛び上がった。
出入口を振り向くと、そこに一人の男が、ドアに身を寄りかけ、斜交いに二人を見下ろしていた。
ひょろりとした身体つきに、長い顔。身につけているのは、ぴっちりとした黒革の上下で、どことなく『剣鬼郎百番勝負』の主人公、村雨剣鬼郎を思わせる。
髪型もオール・バックにしていて、広い額を見せている。ずばり、この男こそが、剣鬼郎を演じる仮想現実役者だ。
「剣鬼郎さん……。何を勘違いしているんです」
健一は無理矢理、愛想笑いを浮かべて相手に話し掛けた。役者は本名は別にあるが、役名をそのまま芸名にしている。
「勘違い? どうだかな! 別の江戸仮想現実で、撮影するだと? 俺はどうなるっ!」
剣鬼郎の蟀谷に、ぴくぴくと血管が浮かび上がった。色白の顔に、一遍に血が昇って、見る見る茹で上がったように赤くなる。
じりじりと、健一と永子は後じさった。村雨剣鬼郎は『剣鬼郎百番勝負』で注目され、本人も役柄そのままの気分でいる。
あるとき、剣鬼郎が役柄の着物を身につけ、さらに刀を差して外出した事件があった。さすがに刀は模造刀だったが、仮想現実時代劇そのままの格好で街に現われた剣鬼郎に、大騒ぎが巻き起こったものである。
後で健一と永子は、警察にこってり、油を絞られたものだ。
とにかく村雨剣鬼郎という役者、おっそろしくキレやすく、扱い辛い。『剣鬼郎百番勝負』がなければ、健一はさっさとこんな役者と手を切り、別の作品に取り掛かりたいと、一途に考えていた。だからこそ、永子に「別の江戸仮想現実で撮影したら?」と提案したのだ。
上手く行けば、これでこいつとおさらばできると、健一は目論んだが……。しかし、今の話を聞きつけられたとは、完全に計算違いだった!
「打ち切りなんて、とんでもない! ちょっとしたロケハンですよ……」
ようやく、健一は言い訳を口にした。もっとも、言い訳にしても、全く真実味がないのは自覚している。
剣鬼郎は「へへっ!」と身を反らせ、嘲笑った。
指を健一に突きつけ、一気に捲し立てた。
「判っているぞ! 俺抜きで、撮影するつもりなんだ! そんなの、許せない! お前たち、契約を忘れたとは言わせないぞ」
剣鬼郎の指摘に、健一と永子はお互いの顔を見合わせた。
契約! そうだった!
二人が思い出したのを認め、剣鬼郎の顔に快哉が浮かぶ。
「そうだ、契約だ。俺と取り交わした契約では、あんたらが企画した総ての仮想現実作品には、俺が関わるとなっている。俺が許さなければ、あんたらは一カットだって、撮影できないって、契約だったよなあ!」
健一はゆっくり頷き、永子の顔を見た。永子もまた、口一杯に苦いものを詰め込んだように、唇をへの字に曲げている。
永子は観念したように背を椅子に預け、立ちはだかっている健一郎を見上げた。
「それで、どうしろって言うの?」
「決まってる! 俺も、あんたらの撮影に同行する!」
「え──っ!」
健一と、永子の二人は、同時に悲鳴のような声を上げた。
気持ち良さげに、剣鬼郎は腕組みをして、胸を張った。
「他の江戸仮想現実で、撮影するなんて、あんたらにしちゃ、驚くほどいい考えじゃないか? これで『剣鬼郎百番勝負』も益々、人気が出るってものさ!」
剣鬼郎は勝ち誇り、「あっはっはっは!」と、天を仰いで高らかに笑った。