五
健一らは、養生所を去った。患者が実在するのを確認した今、養生所には、もう用はない。
が、辞去する寸前、道庵は、二郎三郎に縋りつくように頼み込んだ。
「お願いいたす! あ、あの患者の腕にあった、注射針の跡については、是非とも御内密に……。拙者は何も、わざと見逃したのでは、御座らん!」
「判っているよ。俺も、わざわざ面倒事を、引き起こす趣味はねえ。ま、患者には親身になって、診てやってくれ」
二郎三郎の返事に、まだ何か言い足りそうな顔つきの道庵だった。
が、ぐっと堪えて深々と頭を下げる。【遊客】である道庵が、患者の腕にあった注射針の跡を見過ごしたとあっては、責任問題なのだろう。
外に出た一行は、養生所の前で額を突き合わせ、歩きながら、相談に入った。
永子は養生所の方向を振り返って、首を捻る。
「でも、道庵というお医者様。患者の、腕の注射跡に、全然、気付かないなんて、飛んだ藪医者だわね!」
健一は、永子の疑問に答えてやった。
「自分で言っていたじゃないか。現実世界では、素人だって。それに、江戸仮想現実で、注射針なんて、まるっきり頭に浮かばなかったに違いない……」
「これから、どうなさるおつもりで御座る?」
億十郎が口を開くと、二郎三郎は「さあてね」と、顎を撫でた。億十郎は、二郎三郎の態度に、微かに頬を紅潮させる。眉が迫っている。腹を立てているのだ。
そんな億十郎の態度に、二郎三郎はニヤッと笑いを浮かべた。
「まあ、慌てる乞食は貰いが少ない……って言うじゃないか。まず、情報を集めないとな。いったい、どこで、あいつらが麻薬に接触したのか──それが判明しないと、次の手は打てねえ」
「その仕事には、俺の下働きをしている、源三が打ってつけかもしれねえな」
剣鬼郎が口を挟み込んだ。二郎三郎は、ちょっと驚いた表情になって、剣鬼郎の顔を見詰め返した。
「源三……とは、誰だい?」
剣鬼郎は「あっ!」と小さく叫んで、ぴしゃりと自分の額を叩いた。
「いけねえ! つい、鞍家さんも、知っているものと、決め込んでいた! 何、俺の家に住み込みで働いている男でね。そいつは、昔、悪い仲間に加わって、相当に危ない橋を渡る暮らしをしていたんだが、俺がひょんな出会いで知り合って、家に引き取った次第だ。探索仕事には、慣れている」
二郎三郎は「なるほど」と納得した表情だ。億十郎を振り返り、声を掛けた。
「億十郎。お前さんの兄は、片岡外記のところで、働いているんだったな? どうだい、兄さんを通じて、養生所で麻薬患者がぞろぞろいたと、報告しておいては?」
億十郎は、二郎三郎の言葉に頷いた。
「それが宜しかろうと、存ずる。この後、拙者が活動する目当てを、もしかしたら外記様がお示し下さるかも知れませぬからな」
二郎三郎は頷き返し、健一と永子を見た。
「それじゃ、あんたら二人は億十郎と片岡外記に会うがいいや。さて、そっちの……」
二郎三郎の視線は、一行の後ろにトボトボ歩いて従いてくる紗霧に向かった。紗霧は、今までの会話に加わらず、少し離れたまま、無表情に歩を運んでいる。
全員が、なぜか立ち止まり、紗霧を見詰める。全員の視線に、紗霧はぎょっと立ち竦んだ。
「あたしは……!」
言い掛けた紗霧は、慌てて自分の口を両手で押さえた。
永子はぐいっ、と指先で眼鏡を直す。
「あんたの声! さっきまでと、全然、違ってるわ! もう一度、何か喋りなさいよ!」
健一は首を捻る。
「風邪でも引いたかな? 妙に嗄れていたけど……」
二郎三郎はニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「いいや──言うなれば、声変わりだな。少しばかり、この仮想現実に長居しすぎた結果だ。おい、そろそろ正体を明かしても良いだろう?」
「あたいの何を──!」
紗霧は言い返そうとするが、口を開くたびに、妙に野太い、男のような声になる。二郎三郎は、ケタケタと高笑いをした。
「時間切れだぜ! その姿で、一日以上は過ごしているはずだ。そろそろ、限界が迫っているんだ……。そうだろう? 吉奴!」
健一は、ギョッとなった。
「吉奴だって! そ、その名前は……!」
二郎三郎はぐるりっ、と健一に向き直った。
「そうさ。品川女郎屋で、血迷った奴に人質になっていた、電脳オカマ【遊客】。吉奴が、紗霧の正体だよ! 剣鬼郎が、別嬪選抜をすると聞きつけ、新たな【遊客】のアバターを作って、駆けつけたんだろう。俺は、一目ちらっと見ただけで、あっさり正体が判ったがね」
健一は二郎三郎の説明を耳にして、今までの疑問が氷解する気分だった。
そうか。妙だ、妙だと思っていたが、紗霧が吉奴だとすれば、総て頷ける。
吉奴は【遊客】の気配を消し去る特技を持つ。だから、最初に見たとき、【遊客】とは思わなかったのだ。
しかし二郎三郎の言う、時間切れとは、何を指しているのだろうか?
紗霧=吉奴の全身が、ぶるぶると、瘧のように震え出した。唇をぐっと引き結び、顔色は真っ赤から、どす黒い紫色に近くなっている。
足を何度も踏み締め、紗霧=吉奴は、天を仰いで叫んでいた。
「悔しい──っ!」




