二
「おい、本当に俺の言葉が判らないのか? もう一度、言うぞ。麻薬がこの江戸に、蔓延っていると俺は言うのだ!」
二郎三郎は、噛んで含めるような口調になる。
健一は、それでも首を横に振った。
「済まない……。麻薬とは、何だ?」
二郎三郎は腕組をして、苦々しい顔になった。ふっと溜息を吐き、肩を竦めた。
「そうか。お前さんの若さじゃ、知らないのも無理はないかもな……。おい、億十郎!」
億十郎は「何で御座る」と二郎三郎に向き直った。
「お前には悪いが、ここからは俺たち【遊客】の身内の話になる。お前には聞かせたくない内容なので、席を外してくれ」
億十郎は一瞬、憤りを見せた。が、それでも、ぐっと堪えて頷いた。
健一は、仮想現実が話題になるなと、推測した。
江戸NPCの前で、あからさまに仮想現実について、話し合う行為は禁じられている。もっとも、『仮想現実』云々と聞かされても、当のNPCには珍粉漢粉だろうが、混乱させるわけにはいかない。
「承知!」
短く答えると、さっさと立ち上がり、座敷を出た。億十郎を見送り、二郎三郎はじろりと健一に目をやった。
健一は無言で責められているようで、居心地が悪い。二郎三郎は、にやっと笑った。
「何も責めてはいねえよ。何の説明もなく、出し抜けに本題に入って、悪かった。お前さんの年頃なら、生まれた時から仮想現実は世の中にあったろうから、仮想現実が普及して、ある犯罪が事実上、消滅したのは、知らないんだろう?」
「それが、麻薬、とかいうものか?」
「そうだ。仮想現実が普及してからだが、それまで、社会に蔓延っていた麻薬犯罪が激減した。事実上、世の中から消えた、と言っていいほどに呆気なかった。麻薬というのは、人間の脳に影響を及ぼす薬物の総称なのだ。一瞬の快楽を得るために、人々は麻薬を使ってきた。その代償は、酷いものだ」
二郎三郎は、諄々と麻薬の害毒について、健一に向かって講義を続ける。麻薬を手に入れるため、どんな破廉恥な犯罪が引き起こされたか、二郎三郎は、詳しく説明した。
「酒も、飲みすぎると依存症になる。アルコール依存というやつだ。だが、酒と、麻薬の依存の違いは、アルコール依存になるには、相当程度の長い年月、酒浸りの生活でないとならないのに、麻薬は、たった一度の体験で、即座に依存症になる点だ。当時の麻薬は、非合法組織の、収入源だった」
聞いている健一の背中に、寒気が走るほどだった。
「なぜ、そんな馬鹿な真似を、当時の人間はしていたんだ? ああ、その頃は、仮想現実装置がなかったからか!」
二郎三郎は頷いた。
「その通り。俺はまだ、仮想現実装置が普及する、初期の頃を覚えている。あの頃、世間では、仮想現実で新たな犯罪が起きるのではないかと心配していた。だが、実際は、現実世界の犯罪が一掃されたも同じだ。犯罪を犯すくらいなら、安全で、絶対確実な仮想現実の快楽を得るほうが楽だと、皆が気付いたんだな」
永子が呟いた。
「でも、なぜ江戸仮想現実に麻薬があるの? 麻薬の正体は、何か判っているの?」
二郎三郎は、不機嫌に頷いた。
「どっちも、判らねえ! それに、まだ証拠があるわけじゃない。俺が、推測しているだけだ。江戸仮想現実で使えそうな麻薬というと、やはり、阿片だろうな」
健一は聞き慣れない言葉に、質問する。
「阿片? それは何だい」
「芥子の実から採れる、麻薬だ。しかし、二人が示した症状は、阿片を使用したのとは違う。いったい、どんな麻薬なんだ……?」
二郎三郎の返事は、最後に呟きとなって消えた。
永子が顔を上げ、口を開く。
「ところで、二郎三郎さん。ここに、億十郎さんを呼んだのは、どういうわけ? 何か、あなたの話では、あたしたちにも関係すると言っていたわね」
永子の言葉に、二郎三郎はようやく、思い出したように素早く頷いた。
「そうだ! そうだった! うっかり、億十郎を忘れていた! おい、剣鬼郎。億十郎を呼んでくれ!」
剣鬼郎は手を打ち合わせた。剣鬼郎の合図に、瞬時に源三が顔を出す。まるで、すぐそこに控えていたかのようで、全く理想的な下働きの男である。
「何か……?」
「億十郎を呼んでくれ!」
源三は「へーい!」と元気良く返事をすると、小走りになって、座敷前の縁側から出てゆく。
ほどなく、億十郎が縁側を回って、座敷に戻ってきた。億十郎は一同を見やって「お話は済み申したか?」と顔を綻ばせる。
億十郎は、ゆっくりと頷いた。
「まあ、座ってくれ。ここからは、お前さんに関係する話だ。さっきも言い掛けたが、この江戸に、麻薬が蔓延っている疑いがある。お前さん、どう思う?」
二郎三郎の問い掛けに、億十郎はきりっと眉を上げた。
「どう、思うも御座らん! もし、鞍家殿の推測が確かなら、猶予ならぬ事態で御座る! 上様のお膝元で、かような犯罪が出来しているなら、拙者、微力ながら、犯人を追い詰めたく、存ずる!」
二郎三郎は、晴々と笑った。
「お前さんが言いそうな台詞だな! 実は、お前さんの兄さんの上役。そう、片岡外記だが、俺が話を持ち掛けたと思いねえ」
億十郎はちょっと、仰け反った。
「外記殿と、鞍家殿は、知己で御座ったか?」
「まあな……。ちょっとした、知り合いなんだ。それで、片岡外記も、俺の憂慮に同意してくれた。だが、探索を本格的に始めるには、証拠が少なすぎる。それで、自由な身の上の、お前さんに白羽の矢が立った!」
億十郎の顔に、さっと朱が上る。
「拙者に?」
「そうだ。密かに、探索を進めて貰いたいというのが、片岡外記の、あんたに対する依頼だ。ここに、外記からの手紙を預かっている。検めてくれ」
二郎三郎は、懐から一通の書状を取り出した。横から書状の上書きを見て、健一は「おや?」と思った。
上書きには「大黒億十郎殿」とあって、片岡外記の署名がある。二つの筆跡は楷書体で書かれている。このような書状なら、江戸の人間は草書体で書くはず……?
だが、健一の考えは、億十郎の大声に掻き消された。
「何と! 拙者に麻薬犯罪探索の隠密御用で御座るか! この大役、是非ともお請けいたしたい!」
すっかり感激し切っているらしく、億十郎の大きな顔は、真っ赤に染まっている。
二郎三郎は、健一と永子に顔を向けた。
「そこで、お前さん二人だ! あんたら、確か江戸で芝居の筋を作るつもりだったな?」
健一と永子は、申し合わせたように無言で頷いた。二郎三郎は、にやっと笑った。
「それなら、億十郎の探索に付き合っちゃ、どうだね? そのまんま、劇のネタになるんじゃないのか?」
「あっ!」
健一はようやく、事態を理解していた。




