三
話の前に、健一は、用意してきた手土産を、億十郎の前に押し出した。持参したのは、途中で買い求めた白砂糖一斤の包みである。
一応のお礼である。砂糖は、江戸では高価な調味料で、生産が盛んになった江戸後期でも、庶民がおいそれと口にできない贅沢品だった。
剣鬼郎の助言である。現金を差し出しても良いのだが、それは却って無礼に当たるとかで、白砂糖を持参したのだ。
「これは……有り難く頂き申す」
億十郎は包みを持ち上げ、ちょっと頭を下げた。
障子の向こうから足音がして、するりと開くと、さきほどの女性が立っていた。手には盆を持ち、茶の用意をしている。淑やかに各々の前に湯飲みを置いてゆく。武家の家では、商家と違い、障子を開ける場合、立ったままである。不意の抜き打ちを警戒しているのだ。用心深い家では、懐剣に手を掛けたまま、足で開けるほどである。
億十郎が女を見上げ、声を掛けた。
「義姉{あね}上! このようなものを頂きました」
どうやら女性は、億十郎にとっては、兄嫁にあたるらしい。女は億十郎から、包みが砂糖であると教えられ、少し顔を綻ばせた。
しかし武家の躾けが行き届いているらしく、感情を顕わにはしない。ただ「有難う御座います」と礼の言葉を短く述べただけだ。
億十郎から包みを受け取ると、盆に載せて退出する。
すべてが舞を見るようで、優雅ともいえた。
健一は密かに頷いた。
成る程……。武家の日常というのは、このようなものか。時代劇とは、大違いだ!
兄嫁が退出すると、億十郎は健一らに向き直って口を開いた。
「さて、御両所のお話で御座るが、お手紙には、拙者に仕事を――とありましたな?」
健一は勢いづいて、強く頷いた。
「はい。わたしは……手前は、仮想体験劇という……つまり、江戸で申すところの……」
どう説明して良いか、健一は躊躇った。
肝心なところで、健一は口下手になる。隣で黙っていた永子が、見てられないとばかりに、膝をぐっと進めて引き取る。
「つまり、芝居に出て貰いたいんですの!」
湯飲みを口に含んでいた億十郎は、永子の言葉に「ぶーっ!」と茶を噴き出した。気管に入ったのか、げほげほと咳き込む。
顔を上げると、真っ赤になっている。
「拙者に、役者をやれと申すので御座るか? お二人、正気で御座るか?」
永子は嫣然と笑った。
「もちろんです! わたしの見るところ、億十郎様は、とても見映えの良い殿方です。きっと、億十郎様の出演する芝居は、評判になりますわ!」
曖昧に、仮想体験劇の説明は省いている。
まあ、江戸NPCに仮想現実を理解させるなど、土台からして不可能だろうが。
しかし億十郎のような、江戸NPCの知識の中に存在する芝居は、歌舞伎などの、観客が大勢いる中での、演技でしかないだろう。
武士が歌舞伎役者になった前例(初世・沢村宗十郎=一六八五~一七五六)は、ないわけではないが、健一たちの提案は、驚天動地に違いない。
億十郎は背筋を真っ直ぐにさせ、両目をくわっ、と見開いて、二人を睨みつけた。
「お断りいたす! 拙者は修行の身。浮ついた役者風情になるなど、毛頭、考えも御座らん!」
億十郎は剣術の修行を熱心に続けていると、二郎三郎から聞かされている。
そのせいか、億十郎が怒りに満ちて二人を睨むと、【遊客】に似た迫力を発していた。健一は億十郎の気迫に、思わず下を向いた。
永子が必死に宥めに回る。
「まあまあ……。億十郎様の考える芝居と、私共の芝居は違いますのよ。決して、舞台に出て、台詞を喋って貰いたい、と言うのではありません。ね、健一、億十郎様に、企画書をお見せしたら?」
健一は、永子の言葉に、懐から企画書を取り出した。『剣鬼郎百番勝負』用に使用された、プロットが書かれている。
「これを、どうぞ……」
不機嫌そうに健一から企画書を受け取った億十郎は、手許に引き付け、目を活字にやる。江戸時代と、現実世界では、漢字の幾つかは新字体となって、江戸NPCには読み難いものだが、それでも大意は掴んだようだ。
いや、独自の解釈に達していた。
「これは……! 御公儀転覆の企みが書かれておるな! 浅倉玄蕃頭とは、どこの誰で御座る? 何と大胆不敵な計画……! むうう! 許せん!」
あっ! と健一は青褪めた。うっかりしていて、つい最近になって完成したばかりの『剣鬼郎百番勝負』用、プロットを渡してしまった。
億十郎は片膝を挙げ、だんっ! とばかりに床に足裏を叩きつける。
「さあ、話せ! この企みは、どこまで進んでおる? お主が企みの首謀者であるか?」
片腕を伸ばし、大きな手で健一の胸倉を掴み上げる。億十郎の腕力は物凄く、片腕一本で、健一の身体を引き寄せ、ぎりぎりと締め上げた。
健一は呼吸ができず、ぱくぱくと口を開閉させるだけだった。
永子は背後に回り、ぴしゃぴしゃと億十郎の背中を叩いた。
「億十郎様! これは芝居ですのよ! 決して、本当に、御公儀転覆の企みがあるわけではないんです!」
「芝居?」
億十郎はポカンと口を開いた。
「しかし、ここに、はっきりと書かれているではないか! 大量の武器弾薬を購入し、江戸を焼き払い、畏れ多くも征夷大将軍を拉致、老中らを一掃……と!」
締め上げられ、薄っすらとした意識の中、健一は思い出していた。
江戸時代、武家階級を扱った芝居には、同時代の人物などは登場させられず、当時の芝居は『太平記』などの世界観を借りて脚本を書いた、という事実である。
例を挙げるならば『仮名手本忠臣蔵』などがそうで、吉良上野介が『太平記』に登場する高師直、浅野内匠頭が塩冶判官に変更された前例である。
永子は必死に掻き口説く。
「ですから、【遊客】が楽しむ芝居なんです! 江戸では決して、上演しません! みんな、作り事なんです……!」
億十郎は、ぱっと健一の首元を締め上げていた手を離した。
健一は、どうっとばかりに、派手に仰向けに倒れ、ぜいぜいと喘いだ。酸素不足で、目の前にちらちらと火花が散っていた。
「作り事かどうか、拙者の目で確かめる!」
億十郎はすっくと立ち上がり、素早く両刀を帯に捻じ込んだ。
健一と永子は、茫然と億十郎を見上げていた。




