一
「びえっくしょん!」
妙な嚔に、健一は鼻を啜り上げた。海水に、どっぷり、頭まで浸かったのだ。嚔くらい、出る。
「風邪ぇ引かないかな……」
「ぶあっはっはっはっは!」
健一が呟くと、剣鬼郎は仰け反って笑った。
「引くわけ、ないだろう? ここは仮想現実だぜ! 本当に、あんたが水に入ったわけじゃないんだ!」
ぐすっと、健一はもう一度、鼻を啜る。言われてみれば、その通りだが、もう少し言い方ってのがあると思う。
剣鬼郎は、まるっきり同情する様子もなく、顎をしゃくって健一と永子を急かせた。
「ともかく、鞍家二郎三郎とかいう、開闢【遊客】を探そう! 俺も直接そ奴に会うのは初めてだが、心当たりはある」
剣鬼郎はさっさと足を挙げ、歩き出す。懐手をして、大股に進む。闊歩の様子は、完全に江戸仮想現実を把握しているようで、自信たっぷりだ。
品川の町を歩くと、行き交う江戸町人たちが、先頭を歩く剣鬼郎に気付き、目配せ、袖引き合って、何か囁いている。
「あれは……?」「村雨剣鬼郎様じゃないか?」「ああ、俺、一度お顔を、拝見したことがある!」「本当か?」
ざわめきが、三人の後から従いてくる。
ついに、一人の町娘が、意を決した様子で、剣鬼郎に近づいた。年の頃なら番茶も出花、十七、八くらいの、可愛い娘である。
「あのう……、もしや、あなた様は、村雨剣鬼郎様で御座いましょうか?」
話し掛けられた剣鬼郎は、立ち止まり、大きく頷いた。
「然り! 拙者が、村雨剣鬼郎である!」
「きゃあっ!」と黄色い歓声を上げ、町娘は、両手を打ち合わせた。
「やっぱり、剣鬼郎様よ!」
娘の大声に、わっとばかりに、人だかりができた。人込みに健一と永子は押され、たじたじと踏鞴を踏む。
「剣鬼郎様だっ!」「ありがたや……!」「おいっ、お前の頭が邪魔で、剣鬼郎様を拝めないじゃないかっ!」
わあわあと、大騒ぎ。押すな押すなの人だかりで、中には何を勘違いしたのか、両手を擦り合わせ、口の中で「南無……」と唱えている奴もいる。
剣鬼郎がいる、という噂で、たちまち辺りは大混雑。叫ぶ奴、泣き出す奴、笑い声を上げる奴、ついには「ええ剣鬼郎印の饅頭はいかが?」と物売りが出る始末(嘘!)。
健一と、永子は、憮然と顔を見合わせた。
「どうなってんの?」
永子に問い掛けられても、健一は何が何やら、さっぱり判らない。むっつりと、黙り込んでしまう。
とにかく、剣鬼郎は大人気だ。人込みの真ん中に位置する剣鬼郎は上機嫌である。
健一は人群れを掻き分け、掻き分け、剣鬼郎に近づいた。
「おいっ! 剣鬼郎……これはいったい、どういう騒ぎなんだ?」
「まあまあ、月さん。慌てるな。こんなのは、いつもの騒ぎさ。驚くにはあたらない……」
剣鬼郎の言葉に、健一はむかむかと怒りが込み上げた。
「目的を忘れていないか? 鞍家二郎三郎という開闢【遊客】を探すんだろう?」
剣鬼郎は、ぱちんっ! と自分の額を叩いて、ついでに横手を打った。
「おっと、忘れていたっ! 済まん、済まん。それでは……」
ぐっと背筋を伸ばすと、朗々と声高らかに周囲に話し掛ける。
「おーい……。俺は鞍家二郎三郎氏という【遊客】を探しておるんだ! この中で、鞍家二郎三郎殿の、お住まいを知る者はおらぬか?」
喧騒がぴたりと停まり、全員が顔を見合わせた。
「おら、知ってる!」
声が上がった。声を上げたのは、七、八歳くらいの男の子だった。足下は裸足で、ぱたぱたと足音を立てて近づくと、剣鬼郎の袖を掴んだ。
「おら、二郎三郎の居場所、知ってるよ!」
剣鬼郎を見上げ、にっと笑う。
「よしっ! 案内してくれるか?」
男の子は、空いた片手を突き出した。
「案内して欲しけりゃ……判るだろ?」
剣鬼郎はくしゃくしゃと、笑い顔になった。
「よしっ! 案内してくれたら、十文でどうだ?」
「うん!」
頷くと、剣鬼郎の袖を掴んだまま、歩き出した。健一と永子は顔を見合わせ、男の子の後を追った。
歩き出した健一は、ふと背後を振り返る。群衆は、ぽかんとした表情で、剣鬼郎の背中を見送っている。
しかし、なぜ、剣鬼郎があのような人気者なのか? ぶるっと頭を振って、今の疑問を横に押しやる。
とりあえず、今は鞍家二郎三郎という【遊客】を探すのが、先決だ!




