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京都にての物語

上賀茂神社~禊~

作者: 不動 啓人

「なんだよ、お前。いきなり買うのか?」

「いいじゃないの。ほら、早く、早く」

 早紀江さきえは呆れる敏夫としおの手を引き、上賀茂神社かみがもじんじゃの手前を左に折れた。そのまま少し行けば、焼餅で有名なお店がある。

 早紀江はテレビでその存在を知って以来、上賀茂を訪れたならば必ず寄ろうと決めていた。敏夫もそれは承知していたが、まさか着いて早々に向うとは思っていなかった。我が妻ながら、その食い意地に首を傾げたくなる。

 お店に入り、十個の焼餅を購入した。締めて千二百円。

「五個も食うのか?」

「なに、その顔?このぐらい、あっという間よ。それよりも、早く食べよ」

「ここで食うのか?」

「違うわよ。上賀茂神社内で」

「おいおい、神域で食うのか?」

「もう、食うのか、食うのかって。神社内の川縁で食べるお握りは、格別だって言ってたのは、誰よ?」

「……参ったなぁ」

「さぁ、行った、行った。温かい内に食べた方が美味しいわよ」

 草野くさの夫婦は、上賀茂神社に足を踏み入れた。

 上賀茂神社は、京都でも最も古い神社の一つだ。別雷神わけいかづちのかみを祀り、五穀豊穣国土守護の神徳を持つ。世界文化遺産に指定され、京都三大祭の一つ『葵祭』でも有名だ。

 境内では神域からの流れくる御手洗川みたらしがわ御物忌川みものいみがわが合流し、ならの小川となって南方に下っていく。

 夫婦は正面駐車場の方に回り、砂利を踏みつつ、一の鳥居の前に立った。

 朱の巨大な鳥居。左右に高い樹木を配し、覗くは白砂の、二の鳥居へと続く一本道。潜れば、芝生の広場。

 水彩の筆をとる老人。バトミントンに興じる姉妹。風景を楽しむ観光客。樹木の下にシートを広げて寛ぐ若い親子。幼子が走り、親は目を細める。

 早紀江も目を細めた。時の流れるのは、早いのか、遅いのか。親子の姿にかつての自分を見ているような気になった。

 夫婦の子は二人あったがすでに成人し、親の手からは離れていた。お陰で二十数年振りに、こうして夫婦水入らずで旅行に出掛けられる。

 京都には新婚当時に二人で来たことがあった。けれど、その時は観光シーズンに重なってしまったため、人の波に揉まれた記憶と、夕食のために入った店でオムライスを食べた記憶しかなかった。

 その後、敏夫は仕事の関係で京都は何度か訪れていたが、早紀江に機会はなく、今度望んで旅行先を京都とした。早紀江にとってはリベンジだ。京都を楽しみ尽くそうという想いでやってきていた。

 外幣殿を右手に見ながら進み、二の鳥居を潜る。すると、広場の開放感とは違った厳粛な雰囲気が漂っていた。高い木々がもたらす静寂のためか。

 配された建造物。正面の拝殿前には立砂と呼ばれる円錐形に盛った砂山が二つ立ち、その頂上には二三本ずつ松葉が刺さり、風に靡いていた。一種の神籬ひもろぎ(神様が降りられる憑代よりしろ)らしいのだが、好奇心と美しい造形に、特に二人の目を引いた。

 拝殿の後方には御手洗があり、記された作法通りに、二人はまず右手に杓を持って左手を洗い、続いて右手を洗い、次いで左手に水を受けて口を漱ぎ、最後にもう一度左手を洗い、杓を置いた。水の清涼感に清めの感覚を実感する。

 岩を二枚渡した小さな樟橋を渡り、廻廊を左手に行くと、やがて朱に鮮やかな楼門に辿り着く。楼門を潜れば、四脚中門の先に本殿が覗く。

 二人は賽銭を投げ、二礼にて神に敬意を示し、二拍手の内に願いを込め、一礼にて成就を祈った。

 参拝を終え振り向けば、中門の朱に森の緑、空の青。本殿に鎮座する神の見ている風景。

 体感する視線。鎮まる心を感受する。

「私、ここからの景色が一番好きかもしれない」

「そうだな。風情ってやつがある」

 恐れ多くも、神の心理を散策する。

 中門を抜け、カタカタと風に鳴る絵馬のざわめきを耳にしつつ、歴史重層な屋根を冠した片岡橋を渡り、片山御子社を拝し、葵祭の際に宮司が勅使に対して返祝詞かえしのりとを申す、岩上と呼ばれる洗濯板のような波状の大岩に感心する。楢の小川に沿って苔むした丘裾を左手に、木漏れ日を浴びつつ、木々を眺めつつ、渉渓園を回って、二人の姿は再び楢の小川と交差する。

 芝生の広場へと出る橋を渡り、その袂で早紀江は敏夫の腕を再び引いた。

「さっ、境内を満喫したことだし、焼餅も満喫しましょ」

 川への階段に腰掛け、早速鞄から焼餅の包みを取り出した。

「妙に感心していると思っていたけど、それは忘れていなかったんだな」

「当然でしょう。神社は神社。これはこれで感心するの」

 包みを開けると、中心に満月が浮かび上がったような焦げ目正しい餅が四つ並んでいた。紙を挟んで、下に六つ並んでいる。

 早紀江の手がいち早く伸びる。指から伝わる柔らかい餅の感触。軽く摘み、口へと運ぶ。

 咥えた瞬間、舌が焦げ目に触れ、なんとも言えぬ甘みが舌に広がった。香ばしい甘さ。餡子の甘さもくどくない。

「美味しい」

 早紀江は、早くも二つ目に手を伸ばした。

 敏夫も頷きながら、二つ目に手を伸ばす。

 耳を打つは小川のせせらぎ。頬を撫でるは薫風。爽やかな時の流れが、小川の流れと共に、風と共に去る。

 遠く一羽の鴉が水浴びをしている。近く、母親に背を守られた幼子が小川に手を浸し、不思議そうに水を撥ねる。

 木々の根は縦横無尽に力強く大地に噛み付き、旺盛な茂りを緑の濃淡に示していた。

 木陰の涼しさは、天地和解の涼しさ。抑圧を受けない自由開豁な涼しさ。

「ああ、美味しかった」

 安らぎの環境に、美味。早紀江は五つの焼餅をあっという間に平らげてしまった。敏夫も最後の一口を含み、口を尖らせ惜しむように味わう。

 包みを鞄にしまい、代わりにペットボトルのお茶を取り出して、口内を潤した。

「あなたの言った通り、凄く贅沢な気分」

「だろ?ここで食べると、一味も二味も変わってくる。気分がいいんだ」

 二人はこの一時に満足していた。日頃の苦労が、一掃される想いだ。身も心も、この清廉な環境に委ねる。いつまでもこうしていたい気分になる。

 だが――

「さっ、そろそろ次に行こう」

 観光の悲しいところは、時間に余裕がないこと。ましてや、京都のような名所の多い地では。

 早紀江はもう少しここで過ごしたかったが、予定を大きく狂わす訳にもいかず、立ち上がった。ただ、手に付いた焼餅の粉を洗いたかったので、川縁にしゃがみ込むと、手を小川の水に浸した。途端、えもいわれぬ清涼な陶酔感が水に浸した手を覆い、やがて流れのままに己の存在が流されるようで、まるで我が身が透けていくような感覚に囚われた。

 早紀江は思い出す。夫に教えられた、葵祭にての行事を。斎王代さいおうだい女人列御禊神事にょにんれつみそぎしんじと呼ばれる清めの儀式。十二単を纏った女性が、御手洗川に両手を浸して禊を行う。

 確か説明書きにもあった。上賀茂神社の謂れである玉依姫たまよりひめが川遊びをしていた御手洗川を、瀬見の小川禊の泉、と。

 早紀江の内側から、何かが流れ出していくような気がする。それは穢れか。

「あなたも、どお?気持ちいいわよ」

 早紀江は夫を誘った。

 敏夫は誘われるまま、早紀江の隣に座り込み、両手を水に浸した。

「おお、冷たいなぁ」

 早紀江には見えていた。透明な水面に流れる過去を。我が人生。そして夫との日々を。

 思えば、この人と結婚してから三十年になろうとしている。人生の半分以上をこの人と過ごしてきた。

 色々なことがあった。喧嘩もしたし、嘘を吐いたこともある。話さずに秘密にしていたこともある。それら後ろめたい気持ちが、今流れていっているような気がする。

 敏夫の手を見る。果たして、その手からも流れるものがあるのか。きっとあるのだろう。けれど、今となっては過去のこと。流れるままに、洗われて欲しい。

 子供が独立してまた二人。改めて、この人と歩む区切りの時。

 早紀江は敏夫の手を取った。

「なんだ、どうした」

 照れ笑いを浮かべる敏夫に、早紀江は微笑む。

「これからも、よろしくね」

 禊をもって、新たな契りとなることを早紀江は願った。

 小川の流れは、きっとどこまでも流れて夫婦の穢れを浄化してくれるだろう。

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