きっかけ
再び現実の世界に僕はいた。
あの死神の部屋だ。
死神の姿はなかった。
死神の漆黒のドレスが傍らに置いてあった。
その黒は部屋の明かりを浴びて、ビロードのように光っていた。
シルクのような肌さわり。
僕は死神の冷たい目つきを思い出して、背中が寒くなった。
部屋に気配はなかった。
この世界は明らかに現実で、
感触も本物だった。
僕は何年もの間、暗闇の中だけで生きてきた
その暗闇の世界だ。
お金もないし、夢も希望も持てなかった。
現実の世界は、時間だけが流れていって
周りの関係のないことだけは変化していった。
もう、戻れない時間の中で、目的も何もなく、生きることほど厳しいことはない。
人生はやり直せると言うが、その多くの人たちは、やり直しができない。
何かきっかけさえあればと思うが、
きっかけはいつまで経っても、訪れない。
死神との出会いは1つのきっかけかもしれないが、
結局何も変わらず、
僕は生きている。
死神のいない部屋を後にした僕は、
歩き出していた。
ただ、あてもなく・・・。
あの女は僕に何を伝えたかったのか?
そもそも僕が見たものは幻覚だったのだろうか?
僕は冷たいアスファルトの上をさまよい続けた。
2つの光が僕の前に現れるわずかな時間の間、
この世に生きる全ての人たちのことを考えて、怨んでいた。
妬むといった方がいいかもしれない。
世の中の普通とはなんだろうか?
涼は?
千恵は?
普通だったのだろうか?
光が僕を吸収する。
僕自身の暖かさにまどろみながら、
冷たい夜は終わっていった。
千恵が僕に笑いかけたように思えた。