サトリ
登山が趣味の田口という男がいた。ある日、彼が順調に山道を登っていると、ふいに岩陰から何かが飛び出してきた。
男だった。髪はボサボサに乱れ、すすけたような薄汚れた服を着ている。肌は土埃にまみれ、しばらく風呂に入っていないのが一目でわかる。
田口は驚き、思わず立ち止まって身構えた。だが、『山ではみんな仲間』という登山者としての良識が顔を出し、努めて明るい笑顔を作り、軽く会釈した。
そのまま通り過ぎようと歩を進める。だが、男は田口を呼び止め、ニヤリと笑った。
「お前、今ちょっとワクワクしているな?」
「はい?」
唐突に『お前』呼ばわりされたことに、田口は少し眉をひそめた。だが、相手の風貌を見れば、ぶっきらぼうな物言いも頷けた。いわゆる少し“危ない人”だ。
こんな山の中で何をしているかは知らないが、関わらないに越したことはない。そう判断して、田口は曖昧な笑みを浮かべ、再び歩き出した。
だが、足音が後ろからついてきた。
「何か良くないことが起こる気がしているな?」
「え、良くないこと……? いやあ、ははは……あの、すみません、失礼しますね」
田口は苦笑しながら足を速めた。しかし――。
「このまま逃げ切れはしないだろうな、と思ったな?」
「えっ、逃げるなんて、そんな……あの、もしこの先に進まれるのでしたら、お先にどうぞ……」
田口は手を差し出し、男に先を譲ろうとした。だが、男は立ち止まり、ニヤニヤしながら言った。
「おれをどう撃退するか、考えているな?」
「いや、撃退だなんて、そんな……」
「それとも、どうやられてしまうのか、と考えているな?」
「やられるって……あの、何かするつもりなんですか……? やめてくださいよ、ははは……」
田口の笑い声は乾いていた。不吉な空気がじわじわと肌にまとわりつき、背筋を汗が伝う。辺りを見回すが、人影はまったくない。助けは期待できず、武器になりそうなもの見当たらなかった。
それでも何かないかと、藁にもすがる思いでポケットに手を突っ込む。すると、小さな金属の感触があった。ライターだ。
「そのライターでどうにかするのか、と思ったな?」
「えっ!?」
田口の心臓が跳ね上がった。ライターの存在も、自分が考えていたことも、ぴたりと見抜かれたのだ。これは、ただの変人ではないのかもしれない。
恐怖が現実味を帯びてきた。田口は再び歩き出した。しかし、男もまたついてくる。
「身の危険を本格的に感じ始めたな、と思ったな?」
「あ、あの、ほんとに、ついてこないでいただけますか……?」
「そろそろ何か展開が起きるな、と思ったな?」
「な、なんなんですか……来ないでくださいよ……」
「もう察しがついただろうな、と思ったな? おれがサトリであると」
「サ、サトリ? それって、妖怪の……? そんな、まさか……」
「それから……なんか変だな」
「妖怪なんて、いるわけが……」
「妙だぞ……」
「嘘でしょ……」
「ちょっとくどいな、と思ったな?」
「でも、まさか……」
「そろそろオチが来ると思ったな? ん、オチ……?」
「く、来るな!」
「そのライターで……“ああ、これはメタフィクションか”と思ったか? ……いや、なんだこれは? 誰の声だ! どこから聞こえる! おい! そ、そんな馬鹿な! ここが小説の中だと!? ありえない!」
男は絶叫しながら、茂みの奥へと駆けていった。
田口は呆然とその背中を見送り、やがてぽつりと呟いた。
「……なんだ、やっぱりただの頭がおかしいやつだったか」