6 オーベラの年に咲く不穏
「最近、熟睡ドリンクがよく出ますね」
帳簿とにらめっこしながら、ギャランは何気なく声をかけた。向かいで作業していた彦が、顔を上げてにこりと笑う。
「暖かくなりましたからね。湿気もすごいし、みんな寝苦しいんでしょう」
ほんの数週間前までは、腰痛や関節痛用の薬がよく売れていた。けれど季節は進み、今や灯霞の空はすっかり“梅雨仕様”。雨が多くなったぶん蒸し暑さも増し、「夜ぐっすり眠りたい」と、まるでお守り代わりに熟睡ドリンクを買っていく客が後を絶たない。
もっとも、それもそのはず。
アイラ特製の熟睡ドリンクは、一口でふわっと気が抜けるような効果がある。
「飲んだら本当にぐっすりでした!」
「これがないと夜が越せない」
そんなリピート客の声が、噂とともに広がっていた。
「これからしばらく、灯霞は雨が続きますからね」
彦の言葉に、ギャランもつられて空を見上げる。
どんよりとした灰色の雲が、街全体を包んでいた。
人間界ではこの雨すら商機に変えるらしく、通りにはどの店もカラフルな傘や合羽をずらりと並べていた。
(本当に、商魂たくましいな……)
雨が降れば風情があるとされ、赤提灯が灯る頃には通りは歩けないほどの賑わいになる。
傘を差せるスペースもないほどの人だかり――それが灯霞の“雨の夜”だった。
「今日も混みそうですね」
織が外の様子を見て、穏やかに言った。
「早めに店じまいしましょうか」
そう言って看板を下げ、入口の灯りをぽつんと落とす。
ギャランはその光景を見ながら、胸の奥が少しだけ引き締まるのを感じた。
これから、食事を終えれば――実践的な修行が待っている。
人波に揉まれながら、ギャランは通りの喧騒から静かに抜けた。
細い路地に足を踏み入れ、誰も気づかないような裏道を進む。石畳の隙間には苔が生え、空気が少しだけ澄んでいる気がした。道は入り組んでいて、この道を、ひとりで歩けるようになるには、もう少しかかりそうだ。
家の扉を開けると、魔女・アイラがこちらを向いた。
「今日は早仕舞い? 雨が降ってからすごい人だったわね。去年より増えてない?」
ギャランがうなずくと、奥から織が答えた。
「今年は“百年に一度咲く”って言われるオーベラが、広場で咲きそうなんですって。観光客、すごいらしいですよ」
「わたしも、見てみたいわ」と織がにっこりと微笑んだ。
その瞬間――
「……オーベラ咲くの!?」
アイラの顔が引きつった。
「うっわ、それ、マジでやばいやつだよ。超臭いし、しかも妖には地味に害があるんだからね」
「えっ、そうなんですか!?」
「そうよ。みんな百年も経つと忘れちゃうけど、あれが咲いた年は、気分悪くなって倒れる人間が続出して、妖も妖気吸われてヘロヘロになるの。 もうね、あれは見た目に反してとんでもないトラップ花なのよ」
「そんなの、大変じゃないですか……! 枯らさなきゃ」
「まあ、そう思うのが真っ当な反応なんだけどね」
アイラは肩をすくめて、机の上に魔力石と妖力石をぽん、と並べた。
「でも長くこの世界に関わってるとね、“不干渉”がうまく回すコツだったりするのよ。だって、オーベラのおかげで儲かってる人たちもいるでしょ?さあ、ギャラン君の訓練、今日もやるわよ」
「え……またこれですか……」
ギャランは、目の前の石を見てため息をついた。
魔力石には魔力を満タンに、妖力石にも魔力を満タンに注げという訓練だが、成功確率0%
真っ黒な魔力石はまったく変化がない。
一方のピンクの妖力石は、少し力を込めただけで、パリーンとすぐに割れてしまう。
「そもそも魔力石は全然貯まらないし、妖力石は触れたら壊れるし、どうしろっていうんですか」
「だから練習してるんでしょ」
アイラが当たり前のように言って、腰に手を当てた。
「いい? 魔力っていうのは“意思”で出すもの。
それに対して、妖力は“勝手に出る”ものなの。だからあなたは、妖力を抑える訓練と、魔力を意識して出す訓練、両方が必要ってわけ」
ギャランは、がっくり肩を落としながらも、魔力石を手に取った。
(満タンまで、か……)
それはまるで、溢れそうで溢れない、まだ自分の中に眠っている何かに手を伸ばすような作業だった。