第九話 揺らぐ仮面と、囁かれる名
風が鳴っていた。
音もなく、冷たく、まるで俺の存在を押し流すように。
街の片隅。石造りの水路に腰をかけ、俺は空を見上げていた。
……本当に、これでよかったのだろうか。
《棘抱く者》との邂逅から数日が経つ。
あの谷から連れ帰ることはなかった。気を失った彼女を、遺跡の近くにある巡回隊が保護したという報せだけが、ギルドに届いた。
俺は“偶然その場にいた”通行人として扱われた。名を名乗ることなく、“カイ”のまま通した。
「……名前って、便利だな。」
本当の自分を隠せる。
でも、それが時に、皮肉のように感じることもある。
「カイさん、こんなところで何してるの? 依頼出てるって、トゥリスが呼んでたよ。」
明るい声に振り返ると、エレナが手を振っていた。
あの一件以来、パーティを組むことは減ったが、街での付き合いは続いている。
「……あぁ、今行く。」
立ち上がり、気配を整える。仮面は崩さない。
俺は“ルクス”じゃなく、“カイ”だから。
それでも――
あの瞳は、俺の“本質”を見ていた気がする。
ソーンベアラーの、あの虚ろで鋭い視線が、まだ焼き付いていた。
「ところでさ、聞いた? 北の関所近くで、“燃えるような男”が一人で盗賊団を潰したって。」
エレナがそう囁いた。
「炎の拳で、十数人を一撃で沈めたとか……?」
「へぇ。すごいな。」
俺はなるべく無関心を装う。
だが、どう考えても分かるようにその話は俺のことだ。
依頼中、奴らが一般人を人質に取ろうとした瞬間――俺は抑えきれなかった。
……制御が、まだ甘い。
《憤怒》の力は、常に暴れたがっている。
「でもさ……なんか、妙だよね。最近、そういう噂ばっかり。」
「噂?」
「うん。どこかの街で、“棘を纏った少女が魔物を操ってた”とか、“顔を隠した剣士が魔力の化け物と戦った”とか。」
エレナの言葉に、俺は目を伏せた。
……彼女も、動いている。
そう思った瞬間、ギルドから一人の伝令が飛び込んできた。
「非常招集! 西門近くの森で、高等魔獣の痕跡を確認! 有志はすぐに集合を!」
その場にいた冒険者たちがざわめいた。
高等魔獣――
それは、ただの魔物ではない。力ある感情か、あるいは強力な魔力を“核”として進化した存在だ。
俺の胸が騒ぐ。
まさか……。
まさか、また“継承者”が動いたのか?
あるいは――《棘抱く者》が。
思考を切り上げ、俺は走り出した。
目的は一つ。
誰かを守るためでも、正義のためでもない。
ただ、“俺の怒りが騒ぐ方向”へと。
/////
西門の外、鬱蒼とした森の中。
濃く漂う魔素の気配が、空気を澱ませていた。枝葉が不自然に歪み、動物の声すら聞こえない。
――異常だ。
俺は気配を辿りながら、無意識に拳を握りしめていた。
気付けば、他の冒険者たちははるか後方にいる。誰かが足を止めるたび、俺はさらに奥へと進んでいた。
……怒りが疼く。
胸の奥で燃えるものがある。
獣の咆哮に似た、うねる衝動が、足を速める。
その時――
視界の奥に、現れた。
空間をゆがめるような黒い瘴気に包まれた、四足の獣。
だが、ただの魔獣ではない。
瞳には人のような知性が宿り、その額には――“棘の紋章”。
「……ソーンベアラー。」
声に出した瞬間、獣がこちらを睨んだ。
いや、獣ではない。
これは――“造られた獣”。
誰かに憑かれ、強化された高等魔獣だ。
魔素を凝縮させたような鎖が四肢を繋ぎ、その中心に浮かぶ魔石が、嫉妬の色に濁っている。
そしてその魔石から、聞こえた。
『……あなたが、見てくれた。私を、認めてくれたのに……どうして他の女と笑うの?』
耳に直接囁きかけるような、女の声。
あの声だ。
『どうして、あの時、とどめを刺さなかったの? それは……情? 哀れみ? それとも――』
「……違う。」
拳を握る。
「それは、お前が“まだ戻れる”と思ったからだ。……だが今、それを裏切るなら――」
地面を蹴り、俺は一気に距離を詰めた。
高等魔獣――否、《嫉妬に堕ちた獣》が、咆哮を上げる。
茨のような魔力が飛び交い、地面を裂く。
俺は拳に、憤怒を宿す。
「《爆炎連撃・赫ノ牙》――!」
地を抉る炎の衝撃。獣の前脚が吹き飛び、周囲が灼熱に包まれる。
だが、まだ終わらない。
魔石の輝きが増し、再び声が響いた。
『痛い……苦しい……でも、あなたが見てくれるなら、それでいい。』
狂気すら孕んだ想い。
その一言が、俺の怒りを――鈍らせた。
……違う。
これは怒りじゃない。
……俺が、揺らいでる。
その一瞬の隙に、獣が跳びかかる。
「ッ――!」
鋭い爪が肩を裂き、熱が迸る。
俺は後退しながら、炎の壁を展開。
周囲を遮断する。
……中途半端は命取りだ。
もう一度、拳を握る。
――だが。
そのとき、森の奥から飛び込んできた一人の影があった。
黒髪の少女。
肩を切るような短髪に、以前よりも鋭さを増した瞳。
「……勝手に終わらせないでよ。」
彼女――《棘抱く者》が、獣の前に立ちはだかった。
「それは……私じゃない。“私の残骸”。」
そう言って、腕を伸ばす。
魔石が共鳴し、獣が苦悶の声をあげた。
「抑えられるうちに……早く、壊して。」
「お前、何を――」
「“あれ”は、私の嫉妬が生んだ化け物。あなたを見失った時に、魔力が勝手に形を持った。」
肩で息をしながらも、彼女の瞳は真っ直ぐだった。
「お願い、カイ――いや、ルクス。」
その名を口にされ、俺は息を呑む。
「……何故、俺の名前を。」
「前、一瞬だけ貴方と繋がれた気がした時に、なんとなく分かった。あと、カイが怒る時目が赤く光るの。あれ、隠しきれてなかったよ。」
その言葉に、思わず口元が緩んだ。
「……そうかよ。なら――一発で決める。」
俺は魔力を拳に集める。
「《爆炎連撃・赫ノ牙》・二重――終牙!」
渾身の一撃が、嫉妬の魔石を貫いた。
爆風が吹き荒れ、炎が森を焼く。
そして、静寂が訪れた。
獣は砕け散り、残されたのは――《棘抱く者》ただ一人。
彼女は膝をつき、それでも笑っていた。
「……やっぱり。あなたは、私を見てくれる。」
「……お前は、誰かに命令されて来たのか?」
「ううん、勝手に来た。……“あの時”逃げたこと、ずっと後悔してたの。」
立ち上がり、歩み寄る彼女。
その手には、もう茨も、魔力もない。
「でも、次に同じことがあったら……私、ちゃんと隣にいるから。」
囁くように、自分に言い聞かせるように言った彼女の瞳には、確かに“嫉妬”だけではない何かが宿っていた。