第八話 歪んだ継承
ルクス――いや、今は“カイ”として。
俺は〈ガルツァの谷〉と呼ばれる地へ向かっていた。
ダリウムの街での依頼を終えた後、あの“刻印の魔物”と“支配された男”の存在が、どうにも引っかかっていたからだ。
あれは偶然じゃない……。
ロカの“気配”が、まだ残っている。
谷は元々、封じられた魔物の遺跡があるとして立ち入りが制限されていたが、最近になって“異常魔力反応”が検出されたとのことで、ギルドに討伐と調査依頼が出されていた。
俺はそれに単独で応じた。
情報によれば、谷には魔獣ではなく“異質な存在”が棲みついているという。
「……気配が濃くなってきたな。」
谷底に近づくにつれ、空気が重たく、湿ってくる。
魔力ではない。
もっと感情に近い――そう、“憎しみ”のようなものが漂っている。
怒りとは違う……これは、嫉妬……か?
足元の地面がざらつく。
見れば、魔法で焼け焦げた痕がある。
誰かがここで戦闘を行った。
そして、その“誰か”の魔力は今もこの地に染み込んでいた。
やがて、俺の視界に一人の少女が現れた。
年齢は十代後半。
くすんだ緑のローブに身を包み、長く乱れた黒髪が肩にかかっている。
瞳の奥は虚ろで、皮膚には薄く魔力の文様が浮かんでいた。
――この少女もまた、“継承者”だ。
「お前……この地で、何をしている?」
俺が問いかけると、少女は反応を示さず、ただ呟いた。
「……全部、奪われた……わたしの立場も、評価も……全部、アイツが。」
その声には、深い怨嗟が混じっていた。
「……お前は、誰だ」
「わたし……? ……《棘抱く者》。」
名を名乗らず、ただその肩書だけを語った少女。
そしてその身に宿る魔力が、一瞬で炸裂する。
地面を穿ち、周囲の空間が歪む。
空気が捻じれ、黒い茨のような魔力が俺に向かって放たれた。
「……ッ!」
俺は即座に跳躍して回避する。
だが、この力……ただの魔法じゃない。
感情――“嫉妬”が、具現化している。
やはり、こいつも“選ばれた”存在。
……七つの大罪、《嫉妬》の継承者だ。
そう確信した瞬間、少女の瞳にようやく焦点が宿った。
「……お前も、持ってるんだろう? “誰かに与えられた力”を。」
俺は口を閉ざした。
それが肯定か否定か、彼女に伝わったかはわからない。
だが、次の瞬間――
「なら、消えてよ。」
その言葉と同時に、地面から幾重もの“嫉妬の鎖”が出現し、俺を拘束しようと伸びてくる。
魔力の重さが違う。
一発一発が感情の奔流で、制御などされていない。
だが、それ故に――威力だけはとてつもない。
俺は拳を握り、怒りの火を灯す。
「……お前の嫉妬を否定する気はない。けどな――」
背後で、憤怒の炎が噴き上がる。
俺の心に宿した火を消そうというのならば、それは敵だ。
「怒りもまた、“俺の存在理由”だ。」
次の瞬間、地面が砕け、戦場は灼熱に染まった。
「……怒りを、持っているのね。」
少女の声は、まるで独白のように静かだった。
黒髪が揺れ、虚ろだった瞳にかすかな“嫉妬の光”が灯る。
「それでも……あなたは、奪われていない。」
地を這うように現れた魔力の鎖――“嫉妬の茨”が、俺を包囲する。
その数、十、二十ではきかない。
嫉妬の感情が暴走し、魔力を際限なく引き出している。
「お前は……。」
俺は、拳に再び炎を灯す。
「継承者、なんだな。《棘抱く者》……。」
その言葉に、少女の肩がピクリと動いた。
「そう、呼ばれたのは、久しぶり。」
彼女の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
だがそれは、喜びではない。
哀しみ、諦め、そして深い妬みの混ざった――痛みの笑み。
「あなたの名前も教えてよ。」
本当の名前を言いかけて、止める。
今の俺はカイであり、ルクスではない。
「……カイだ。」
「ねぇ、“カイ”。あなた、本当は誰?」
その核心を突いた問いに、俺は一拍置いてから、首を横に振った。
「俺の名は関係ない。ただ……ここで、お前を止める。それだけだ。」
「止める……?」
ソーンベアラーの眼が、ゆらりと揺れた。
「誰も、私を“止めて”なんかくれなかったのに?」
その瞬間、茨の群れが四方から襲いかかってきた。
「くっ――!」
俺は跳躍し、地を転がって避ける。
一本、腕をかすめた茨が肌を裂き、痛みが走る。
その魔力は、ただの攻撃ではない。
傷跡に残る感情が、体の奥まで突き刺さってくる。
……なんて重さだ。
この魔力は“質量”がある。
ソーンベアラーの“嫉妬”という感情が、まるで実体化して襲い来るような……重く、鋭い力。
「……じゃあ、聞かせて。あなたは誰を憎んでるの?」
茨を振り払いながら、俺は叫ぶ。
「誰でもない。けど、裏切られた。信じた仲間に……捨てられて、奪われて、それでも俺は――!」
拳に炎が宿る。
俺の怒りが、形となる。
「怒りを、力に変えると決めた。誰にも明け渡すつもりはない。」
茨の奔流が迫る。
だが、その刹那。
俺は拳を振り抜いた。
「《爆炎連撃・赫ノ牙》!」
憤怒の炎が、俺の周囲を吹き飛ばすように噴き上がる。
茨は焼かれ、空気が焦げつき、ソーンベアラーの身体が弾かれた。
彼女は地面を滑り、岩場に背をぶつけた。
「っ……!」
呻きながらも、彼女は立ち上がろうとする。
だがその手足は、限界まで魔力を絞り出したせいで震えていた。
……もう、戦えない。
ソーンベアラーに近づく。
だが、刃を振るうことはしなかった。
「……なぜ、とどめを刺さないの?」
ソーンベアラーが、薄く笑って問いかける。
その笑みは生をとうに諦めており、乾いた冷たい表情だった。
それがルクスには、何故か酷く美しく見えた。
「それが、私たち“継承者”の宿命でしょう? 奪い合い、殺し合い、最後の一人が世界を変える……。」
「俺はそんなもの、信じてない。」
つい低い声音で言い返した。
「俺が欲しいのは、復讐でも世界の座でもない。自分の力で立って、“あいつら”を超えるだけだ。」
「……あいつら?」
ソーンベアラーが瞠目する。
その目に、微かに“共鳴”の色が浮かんだ気がした。
だがそれも束の間、彼女は静かに目を閉じ、力尽きたようにその場に倒れた。
俺は立ち尽くす。
嫉妬。怒り。憎しみ。裏切り。
それぞれが交錯し、この大地に刻まれていく。
……それが、《大罪》の継承者たち。
俺は再び、歩き始める。
“カイ”として、“ルクス”として。
――この世界の、すべての“咎”と向き合うために。