第七話 名を偽る者、憤りを秘めて
“カイ”と名乗って、三週間が経った。
本当の名――ルクス・アークライトを胸の奥に隠したまま、俺は辺境の街でひっそりと暮らしている。
この街の名は〈ダリウム〉。
王都から遠く離れ、冒険者の補給と野営地として使われるだけの寂れた中継地だ。
だが、今の俺には好都合だった。
情報は遅れ、視線は鈍く、ここで過去を知る者は誰一人いない。
……まだ、俺には力が足りない。
あのパーティに裏切られ、ダンジョンの最奥で選ばれた力――《憤怒》。
それは間違いなく強大で、俺の中で日々燃え盛っていた。けれど、制御しきれていない。
“怒り”に呑まれれば、自分すら見失う。
だから、いまは鍛錬の時。
力を磨き、見極め、誰にも悟られぬように。
「カイ、準備できた? 依頼の受付終わったわよ。」
声をかけてきたのは、臨時で組んだ三人パーティの一人、女剣士のエレナだった。
浅黒い肌に短髪の快活な女で、この街のギルドではそれなりに名の知れた存在らしい。
「ああ、すぐ行く。」
俺は軽く頷いて立ち上がる。
今日の依頼は、街近くに現れた“異常行動を見せる魔物”の調査と排除。
……その言葉に、俺の中で嫌な感覚がよみがえっていた。
異常行動、ね。
あの時もそうだった。
ロカの指示で動いていた部隊、感情を失い従属した魔物たち。
《強欲》の力に支配された者たちは、まるで自我を失っていた。
もしも、今回の魔物も――
「出発ー!」
エレナが先頭を歩き、短槍使いの少年トゥリスと、弓手のミーナが続く。
俺はその後ろに付きながら、街の門をくぐった。
道は険しくなかった。
寧ろ簡単すぎるほどで、俺たちは拍子抜けするほど静かな森の中を進んだ。
……だが、その静寂こそが、違和感の正体だった。
「……おかしい。鳥の鳴き声すらしない。」
トゥリスが呟いた。
確かに、風も草も虫の音も、一切が沈黙していた。
そして、俺は感じていた。
微かな魔力の流れが、異様な軌道で渦巻いていることに。
間違いない。
これは……強欲の“波”だ。
魔力の密度が、どこかで見たものと酷似している。
あれはロカが用いていた“支配の魔力”の残滓。
しかも、かなり近い。
「下がれ!」
俺は仲間たちを押し退け、咄嗟に前に出た。
次の瞬間――地面を裂いて、黒い影が跳ね上がった。
魔物。
否、かつては“魔物だったもの”。
その姿は歪みきっていた。
皮膚は禿げ落ち、血走った目は空を見据え、口からは意味をなさぬ呻き声が漏れる。
そして背中には、奇妙な光を放つ“刻印”が刻まれていた。
俺は即座に理解した。
「支配の痕跡……!」
強欲の力を媒介に、魔物の心を縛り、意志を乗っ取る“徴”だ。
この魔物もまた、ロカの意志に従って動いている。
思考の隙を与えぬまま、魔物が突進してきた。
すぐさま、自分の唯一の拠り所に呼びかけた。
「来い……《憤怒》。」
胸の奥に宿る、あの灼熱が応える。
怒りが心を焼く。
裏切りの日々、見下され、切り捨てられた自分――
あの日の痛みが、今も俺を突き動かしていた。
掌に浮かぶのは、赤黒く光る炎。
その熱が、俺の敵意を――明確な意志へと形に変える。
「消えろ。」
俺は一歩踏み込み、拳を叩きつけた。
爆音。
閃光。
悲鳴。
黒い影は、地面に溶けるように崩れ落ちた。
「……今の、何……?」
ミーナが声を震わせながら、地面に崩れた魔物を見つめていた。
その眼には明らかに“恐怖”が浮かんでいる。魔物にではない――俺に、だ。
まあ、仕方がないだろう。
《憤怒》の力はあまりに異質で、暴発すれば周囲の魔力すら焼き尽くす。
俺は拳を握ったまま、深く息を吐く。
心を鎮める術を、ようやく体に覚えさせつつあった。
今のは……まだ、半分以下の出力だ。
あの“最奥”で解き放ったときの力と比べれば、今の一撃は抑制されたものだ。
だが、敵を屠るには十分だった。
「……皆、怪我は?」
「だ、大丈夫。……カイ、君は……一体、何者?」
トゥリスが警戒の色を浮かべながらも、まだ俺を信じようとしていた。
俺は目を伏せる。
「……ただの冒険者だ。戦闘技術を少しだけ鍛えているだけさ。」
「“少し”ってレベルじゃなかったでしょ!」
エレナが苦笑交じりに叫んだ。
だが、その声音には責めるような響きはない。
寧ろ――頼もしさすら滲んでいた。
……不思議なものだ。
この三人と過ごした数日で、俺は少しだけ“人との距離”に慣れていたのかもしれない。
だが、その空気を裂くように――突如、地面が鳴動した。
「!?」
後方の木々が崩れ、空気が歪んだ。
現れたのは、一体の魔獣――
……いや、違う。
魔獣ではない。
人間だ。
頭巾で顔を覆い、全身に魔法陣のような刻印を走らせた男。
その手には、黒く染まった杖。
肌は病的に青白く、瞳には光がない。
「――観測対象、接近完了。命令通り、“感情の源”を識別、奪取する。」
「ッ……!」
あの刻印、間違いない。
ロカの“支配紋”だ。
この男は操られている。自我はなく、ただ命令通りに動く人形。
「ミーナ、トゥリス、下がれ。……こいつは俺がやる。」
「待って! 私たちも……!」
「下がれ!」
俺の声が、森に響く。
そこまでして、ようやく一目散に町まで逃げて行く三人。
怒りが、心の奥で膨れ上がっていた。
ロカ――
お前はいずれ全ての人間を操るつもりか。
かつて信じ、共に戦った仲間が、
今は俺の怒りを燃やす火種になっている。
「……お前らの背後にいるのが誰かは、分かっている。」
そう吐き捨て、一歩踏み出した。
男は言葉を解さず、ただ杖を構える。
次の瞬間、黒い雷撃が奔る。
魔法――否、強欲の改変魔術だ。
俺はその雷を跳躍で避け、拳に炎を宿す。
怒りは、形となって具現する。
《憤怒》。
俺の内に棲む、原初の力。
「――《赫ノ牙》。」
拳を振るう。
灼熱の波動が空間を焼き切り、相手の体を貫いた。
空気が振動し、木々が裂け、世界が一瞬だけ無音になる。
そして――
男が崩れ落ちた。
人形のように、命を断たれた操り人形のように。
俺はそっと息をついた。
「……ロカ。お前が次に現れたとき、今の俺とは、違うぞ。」
その言葉は風に消え、誰の耳にも届かなかった。
だが確かに、俺の中の“怒り”は言葉に応え、さらに熱を増していた。
これはただの復讐じゃない。
――全てを焼き尽くす、咎への償いの火だ。