第十話 囁かれる異変、揺れる静寂
静かすぎる――そう感じたのは、街を出てすぐの林道を歩いていた時だった。
昼下がりの空は晴れわたり、木漏れ日が地面にまだらな影を落としている。
だがその心地よさとは裏腹に、森から聞こえるはずの鳥のさえずりも、風に揺れる葉のざわめきも、どこか妙に遠く感じた。
……あの夜以来、街の空気が変わった。
嫉妬の魔獣との戦い、そして“彼女”――《棘抱く者》との再会。
あの出来事から数日。
ルクス……いや、今は“カイ”と名乗る俺は、何事もなかったかのように街の依頼を受けていた。
偽名での活動。
本当の目的を胸に隠しながら、着実に力を蓄えていく。
「今日の任務は“調査兼警戒”。討伐ではない、って念押しされたろ?」
隣を歩くのは、傭兵風の男――ギルドで臨時に組まれた四人小隊の一人、グレイ。
「分かってる。だが、気配は……普通じゃない。」
俺は立ち止まり、周囲の魔素の流れを読む。
見えない“何か”が、空気を澱ませている。
「そういえば、この辺りで“赤い鳥”を見たって噂、知ってるか?」
そう聞いたのは、盾士のダールに対して、偵察担当の少女、リネが囁くように返した。
「羽根が燃えてるみたいに赤くて、視線が合ったら動けなくなったって……。」
「赤い鳥……?」
俺の脳裏に、かすかな既視感がよぎる。
いや、“怒り”に反応して現れた何か……?
その時だった。
――バサァッ。
風切り音が、上空から降ってきた。
反射的に身をかがめると、一本の木の幹が裂け、真っ赤な爪痕が残った。
「来たか……!」
グレイが剣を抜き、リネが背後へ下がる。
そして現れたのは――
鳥のような翼を持ち、全身を紅蓮の羽毛で覆った獣。
だがその目は、あまりに人に近く、そして“燃えるような怒り”を宿していた。
「高等魔獣……! いや、違う――!」
俺は直感した。
これは、俺と“同じ匂い”がする。
怒りによって変質した魔力、感情を動力とする存在。
これは……“スキルの痕跡”だ。
この魔獣は、誰かの“怒り”の残滓によって生まれた、人工の魔獣――《共鳴体》。
「クソ。どうすんだ、カイ!? これは俺らの手に負えねえぞ!」
「退け。俺がやる。」
そう言った俺の声に、グレイたちは言葉を失った。
ここ数日の俺からは想像出来ない、“冷たさ”があったのだろう。
俺は、左手の甲に意識を集中させ、呼びかける。
……怒りよ、我が力となれ。
次の瞬間、視界が紅に染まる。
《怒気解放》――常時効果が発動し、身体の芯に熱が灯る。
「来いよ、鳥野郎――焼き尽くしてやる。」
紅蓮の炎を纏った俺の拳が、静寂を破った。
拳が空を裂く。
だが、紅蓮の翼を持つ魔獣は、それすらも嘲るように舞い上がった。
鳥のような外見とは裏腹に、その動きは鋭く、殺意に満ちていた。
――ゴオオオォォオォオオオ!!!!
翼が一閃し、爆風のような熱風が地面をなぎ払う。
俺は即座に魔力を集中し、跳躍でそれを回避する。
速い……が、読める。
《怒気解放》によって高まった感覚が、獣の動きを捉えていた。
「《赫ノ牙》!」
拳が炎をまとい、一直線に敵へと叩き込まれる。
衝撃が炸裂し、魔獣の翼が弾け飛ぶ――はずだった。
「……ッ!」
だが、拳が届いた瞬間、獣の姿が霧のように揺らいだ。
実体を持たない幻影――いや、《憤怒》の魔力が具現化した“共鳴体”だからこその特性か。
「カイ! 大丈夫か!」
背後からグレイの叫びが聞こえる。
仲間たちは既に退避したようだ。
俺は誰にも構わず、もう一歩踏み込む。
怒りが膨れ上がっていた。
この獣の存在そのものが――俺の感情に呼応して“生まれた”としか思えないからだ。
……なら、お前は俺が、終わらせる。
そう決意した瞬間だった。
――ズゥン……!
大地の底から、黒い波動が脈動のように溢れ出す。
視界がわずかに歪み、俺の足元に“それ”が現れた。
「……これは。」
闇のように黒く染まった柄。
焦げた鉄のような質感を持つ刀身に、紅蓮の文様が浮かび上がる。
黒剣――《怒剣ラグナ・レイジ》。
それは、俺の“怒り”が臨界に達した瞬間、地中から湧き上がるようにして現れた。
『憤怒の継承者よ。汝の激情、刃と成せ。』
脳内に響いたのは、誰かの声か、それとも俺自身の叫びか。
自然と手が剣を掴む。
――熱い。
だが、痛みはない。
怒りの奔流が、剣と共に脈打つ。
俺は、ただ感情のままにその剣を振るった。
「《怒火斬刃》……!」
瞬間、黒剣から放たれた紅の軌跡が、空を裂いた。
放射された炎は獣を貫き、虚像ごと焼き尽くす。
共鳴体は断末魔のような金切り声を上げ、爆炎の中で弾け飛んだ。
静寂が戻る。
重い息を吐き、俺は剣を見下ろした。
……なんだ、これは。
答えはない。
だが、確かに――この黒剣は、俺の怒りに呼応して現れたのだ。
そのまま黒剣を手放すと、それは再び黒い粒子となって霧散した。
「……カイ。お前、今の……。」
駆け寄ってきたグレイが、絶句していた。
だが俺は何も言わない。
ただ、静かに立ち去ろうとする。
「……この件、報告は俺に任せてくれ。お前は……休め。」
「……助かる」
背を向けながら答える。
――怒りを剣にする力。
ならばこの憤りは、戦うためにある。
俺はもう、“守られる”だけの弱者ではない。
この手で――裏切りと、歪んだ世界を、焼き尽くすために進むのだ。