裏切り_5
冷たい夜風がアイリーンの頬を切るように吹きつけた。
彼女は失意のまま、ふらふらと道を歩いている。
足元の石畳がぼんやりと揺れ、何も考えられなかった。
何もかもを失い、これからどうすればいいのか分からない。
「一体、どうしたらいいの……。」
信じた夫には裏切られ、家族にすら見放された。寄る辺もなく、頼る者もいない。
アイリーンは考える余裕もなく、ただ自分の無力さを噛みしめるしかなかった。
雨は強くなるばかりで、冷え切った体に容赦なく叩きつける。
「どうして…こんな…。」
衣服はすっかり水を吸い、重たくなっていた。
靴の中にまで水が染み込み、一歩踏み出すごとに不快な音がする。
持っていた荷物はずっしりとした重さを増し、とうとう耐えきれなくなったアイリーンは、雨に濡れた石畳の上にそれを下ろした。その瞬間——
「おい、あんた貴族だな?」
突如、荒々しい手が彼女の腕を掴んだ。
振り返ると、薄汚れた服を纏った男がニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「なんでこんなところにいるのか知らないが、高そうなもん持ってんじゃねえか?」
男の目が、アイリーンの持ち物へと向けられる。その視線は鋭く、獲物を狙う獣のようだった。
「やめて……!」
アイリーンは必死に腕を振りほどこうとしたが、力が入らない。
長時間の疲労と寒さで、体は思うように動かなかった。
男はますます力を込め、彼女の荷物へと手を伸ばそうとする。
「おとなしくしな。どうせ持ってたって、あんたにはもう必要ねえだろ?」
にやつく男の顔を見た瞬間、アイリーンの背筋に悪寒が走った。
抵抗しなければ、このまま奪われる。もしかしたら命すら危うい——
「助けて!」
必死に叫ぶが、雨の音がすべてをかき消してしまう。
誰も助けてはくれない。心臓が早鐘を打ち、恐怖が彼女を支配していった。
(だめ……)
絶望が胸を締め付ける。
しかし、その時——
「何をしている!」
鋭い声が響いた。アイリーンと男が同時に振り向くと、暗がりから何者かが姿を現した。
それは、黒いローブを深く被った背の高い人物だった。
雨に濡れたフードの縁がわずかに揺れ、闇がその顔を覆っている。
表情はまったく見えないが、その佇まいには不思議な威厳があった。
「何だ、お前は……!」
男が叫ぶ。しかし、次の瞬間には鈍い音が響き、男は呻き声を上げて地面に転がった。
泥まみれの石畳に崩れ落ち、苦しげに喉を押さえる。
アイリーンは朦朧としながらも、助けられたことを理解した。
(まさか、ヴィクトール……?)
微かな希望が胸をよぎる。
しかし、期待と不安が入り混じる中、彼女の耳に届いたのは、聞いたことのない声だった。
「アイリーン様でいらっしゃいますか?」
その声音は穏やかでありながら、どこか厳粛な響きを持っていた。
「あなたは……?」
アイリーンは掠れた声で問いかけた。
彼女を知っているような言い方だったが、アイリーンにはまったく心当たりがなかった。
「クソッ…面倒ごとはごめんだ!」
瞬く間に男たちを蹴散らしたその人物に、アイリーンは呆気に取られる。
そして、お礼を言うよりも早く、その人物はアイリーンの前に片膝をつき、そっと手を差し出した。
「あなたをご案内するように言われています。どうかお手を。」
(どういうことなの…?)
アイリーンは一瞬、ためらった。暗闇に浮かぶその手に、自分の手を預けるべきなのか。
しかし、ふと、相手の輪郭を見てアイリーンは思わず息をのんだ。
(女性……?)
暗がりでよく見えないが、この人物は背が高い女性のようだった。
それに気づいた瞬間、わずかに警戒が解ける。
「話は後にしましょう。…雨に濡れているご様子。お身体を休める場所へご案内します。」
穏やかだが、はっきりとした口調だった。
無理に連れて行こうとするわけでもなく、ただ選択を与えているように思えた。
不審に思いながらも、アイリーンはその手をじっと見つめる。
怪しさ満点だったが、不思議と敵意は感じられない。
むしろ、彼女の疲れ切った様子を気にかけているようにすら思えた。
「……わかりました。」
深く息を吐き出し、アイリーンはそっと差し出された手に自分の手を重ねた。
その瞬間、相手の指先がわずかに温かいことに気づく。
冷え切った自分の手とは対照的だった。
その温もりに、わずかに心が安堵する。
アイリーンは疲れ果てていた。
全てを失った今、彼女にはもう頼れるものは何もない。
この誘いに乗るほか、選択肢は残されていなかった。




