裏切り_4
アイリーンは重い足取りで屋敷へと帰っていた。
暗雲が垂れ込める空は、まるで彼女の心情を映し出すかのようだった。
馬車を降りると、冷たい風が頬を打つ。
今すぐにでも暖かな家の中へ駆け込みたい——しかし、門の前にたどり着いた途端、アイリーンの前には無言のまま守衛が立ちはだかった。
「どうして門を開けてくれないの?」
アイリーンの悲痛な叫びにも、守衛は微動だにせず、門は固く閉ざされたままだった。
「おやおや、これはこれは。」
その時、門の向こうにエドワードが現れた。
彼は薄笑いを浮かべながら、面白そうな見せ物を見る目でアイリーンを見下ろした。
「フォンテーヌ家があなたの借金を肩代わりするとご連絡がありましたよ。よかったですね。実家が金持ちで。」
「…どういうことなの?」
声が震えた。必死に問いかけるが、エドワードの顔にはただ嘲るような笑みが浮かんでいる。
「どういうことも何も。そのままの意味ですよ。慈悲深いご両親に感謝するべきでは?」
アイリーンは唇を噛み締めながらエドワードを睨みつける。
しかし、エドワードは怯むことなく、大袈裟に肩をすくめてアイリーンを見た。
「やめて下さいよ。もうあなたは我が家の人間ではないのですから」
そう言うと、彼は手に持っていた紙を門の向こうのアイリーンの前に突きつけた。
「ご主人様からの伝言です。『これを見て反省しろ、アイリーン』と。」
アイリーンは息を呑んだ。
目の前の文字が霞む。震える指で紙を拾い上げると、それは離縁状だった。
そこにははっきりとした筆跡で、ヴィクトールの署名が書かれている。
「……ウソ、でしょう?」
アイリーンは全身から力が抜けていくのを感じた。
信じたくない。けれど、目の前の現実は彼女を容赦なく打ちのめす。
「旦那様も本気なのではないですか?サインをお願いしますよ。あなた得意でしょう?」
エドワードがそう言うと、門の近くにいた守衛たちがくすくすと笑った。
あの出所のわからない借用書にあったアイリーンのサインを皮肉っているのだろうか。
「まあ、奥様も随分と落ちぶれたものだな。」
「かわいそうに、もう帰る家もないんだろ?」
エドワードの後ろで、守衛たちがひそひそと話す言葉がアイリーンに降り注ぐ。
アイリーンは拳を握りしめたが、反論する気力も湧かなかった。
「さあ、早く。サインをすれば、あなたの荷物ぐらいはお渡しますよ。」
「……サインをしなければ?」
声が掠れた。最後の抵抗だった。もしかしたら、まだ望みがあるかもしれない。
ヴィクトールに直接会って話すことができれば、この誤解を解くことができるかもしれない——そんな淡い期待を抱きながら。
しかし、エドワードの表情は変わらなかった。
「しないならそのままです。家に入れるなと言われていますので。もしかして、門の前で生活するおつもりですか?」
彼は薄く笑いながら肩をすくめた。
アイリーンは絶望に打ちひしがれた。足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。
「こんな……こんなこと……。」
言葉が続かなかった。アイリーンの目には涙が溜まり、視界が滲んでいく。
喉が痛い。涙を堪えようとしても、抑えられなかった。
自分が何を言っても、彼らの嘲笑を深めるだけなのだ。
震える手でペンを持つ。最早これ以上ここにいても、許されることがないとアイリーンは絶望した。弁解の余地すらなく、自分は離縁されるのだ。
ペン先が紙に触れる瞬間、涙がぽろぽろと零れ落ちた。筆跡が揺れる。涙が滲み、インクがにじむ。
彼女の脳裏には、かつての幸せだった日々が浮かび、そして消えた。
人々に愛され、何不自由ない生活を送っていた少女時代。
美しいドレスを纏い、社交界の中央で輝いていた日々。
ヴィクトールと誓いを交わした日のこと。
この先もずっと彼と共に歩むものだと疑わなかった未来。
——もう、すべてが終わったのだ。
最後の力を振り絞り、サインを書き終える。
手を離した瞬間、アイリーンはその場に膝をついた。体から力が抜けていく。
「ありがとうございます。聞き分けが良くて助かりましたよ。」
エドワードは満足そうに離縁状を手に取り、それを確認すると、侮蔑の視線を彼女に向けた。
「荷物はレヴィがまとめてくれています。彼女、本当に仕事ができますね。」
エドワードが顎で示す。その視線の先、屋敷の門の奥に見慣れた姿があった。
そこにいたのは、見間違えるはずもない。
「レヴィ……?」
アイリーンは呆然とその名を呼んだ。
レヴィはアイリーンの荷物を入れたと思わしき大きなキャリーバックを持ってこちらへ向かっていた。
それを見たアイリーンは門へと駆け寄る。
しかし、門の前に立ちはだかる守衛たちがそれを阻んだ。
アイリーンは必死に叫んだ。
「レヴィ! ねえ、何か言って!」
レヴィはこちらへ向かいながらも、何の反応も示さない。
その動きは、あまりにも冷淡だった。
——何かの間違いに違いない。
レヴィがそんなことをするはずがない。彼女は私の味方のはず。
そうでなければ、心が耐えられない。
アイリーンはそんなことを考え、必死に自らを律しようとした。
「まだいらっしゃったんですね、お嬢様。」
レヴィが立ち止まり、アイリーンを見下す。
しかし、その瞳には、かつての優しさも、温もりも、何もなかった。
「こんなことになって、私は済々しています。」
「……!」
レヴィの冷たい声が、アイリーンの胸をえぐる。まるで別人のようだった。
アイリーンは目を見開き、彼女の表情を必死に探る。しかし、そこには何の感情もなかった。
「ずっと疎ましいと思っていました。」
レヴィは顔を顰め、吐き捨てるように言った。
「どうか望みはお捨てになられて下さい。何もかも手遅れです。」
ついにアイリーンは膝をつき、地面に崩れ落ちた。涙が止まらない。
泣き叫びたい気持ちを抑えることができず、嗚咽が喉から溢れた。
アイリーンの中にあった希望が、音を立てて崩れ落ちる。
——彼女が裏切るなんて、誰かの差金に違いない。
レヴィが自らの意志でこんなことをするはずがない。誰かが、彼女を操っているのではないか。
そう思いたかった。何か事情があるのだと信じたかった。
「おやおや、悲しいですね。最も信じていた者に見捨てられる気分はどうですか?」
エドワードと守衛が面白そうに大声をあげて笑う。アイリーンは顔を上げる力すらなかった。
「それではお達者で。」
エドワードがアイリーンの目の前に、荷物を乱暴に置いた。
そして、レヴィと共に去っていった。
まるで初めからアイリーンなど存在しなかったかのように、何の躊躇もなく背を向けて。
門の鍵を締め直す音が、終焉を告げるかのように響く。
背後からは嘲笑が聞こえる。誰も彼女を見送ることはなかった。
冷たい石畳の上で、彼女の足は思うように動かない。
(なぜ……? なぜこんなことになったの……?)
全てを失い、アイリーンは呆然としたまま、その場にうずくまった。
雨が降り出し、冷たい滴が頬を濡らす。
誰も彼女を気に留める者はいない。
通りを行き交う人々はただ自分の生活に忙しく、かつて社交界の華だった彼女が落ちぶれたことなど、興味もなかった。
(一体誰がこんなことを……?)
アイリーンは、絶望の中で確信した。
——何者かが、彼女を陥れたのだ。
泥水が跳ねる。
美しかったドレスはすでに汚れ果て、冷たい風が肌を刺した。
空腹と疲労が彼女を襲い、足元がふらつく。
ただ冷たい闇だけが彼女を包み込んでいた。




