エピソード_44
「……虫がいるようだな」
その声は、魔術装置の奥から不意に響いた。
まるでこの静まり返った部屋のどこかに、目に見えぬ侵入者がいるかのような言い方だった。
「はい? 虫でしょうか?」
唐突なその言葉に、レヴィは思わず沈黙し、耳を澄ませた。
ここは、レヴィがヴィクトールから与えられている作業部屋だ。
掃除も出入りも彼女の許可なしでは行われず、書類や記録の整理を行うための静かな場所だった。
だが、室内に虫の羽音はなく、ただ静寂が広がっている。
「――心底、嫌になる」
レヴィは、辺りを一瞥した。
その言葉が、比喩であることは次第に察せられてきた。
しかし、彼の言葉の真意はわからない。レヴィは黙って息を潜めた。
この男は、出会った時からそうだった。
良い感情はほとんど顔にも声にも現さない。
だが、負の感情――嫌悪、不快、侮蔑、苛立ち――だけは驚くほど露骨に表に出す。
まるで不快の感情を味わうことでしか、生きている実感を得られないかのように。
「……まあいい。取るに足らぬことだ。お前の計画はどうなっている?」
「分かりました。共有いたします」
レヴィは手にしていたペンをそっと置き、魔術通信用の黒曜石の台座に向き直った。
そこには誰の顔も映らない。ただ音声だけが、魔術的な回路を通じて彼女の耳へ届いていた。
それでもその声には、言葉一つで人を跪かせるような威圧感があった。
「間もなく、この家を出て、フォンテーヌ家に戻る手筈です」
「ほう……ようやくか」
その言い方には、妙な含みが混ざっていた。
まるで他人の破滅を喜ぶかのような声色だった。
「すでに手紙は届けてあります。あとは日取りを決めるだけです」
「……長かったな。もう間も無くだ」
男はその言葉に僅かばかりの感慨を込めた。
それでも尚、レヴィは相変わらず無表情のままだった。
「ええ。あなた様に、あの家へ遣いを出されてから10年です。この日まで、長い道のりでした。」
レヴィは言った。だが、その声には一片の怒りも、悲しみも、同情すらも含まれていなかった。
あくまで平坦に、ただ事実だけを並べるように。
「――あの家は、間もなくこの国の歴史から消え失せるでしょう」
彼女は静かに言った。
「私の家門と、同じように」




