エピソード_41
夜の静寂が広がるエレノアの部屋に、軽やかなノックの音が響いた。
「私よ、エレノア。」
扉が開かれると、そこに立っていたのはヴェロニカだった。
「まあ、珍しいわね。」
エレノアは机に向かいながら、意外そうに顔を上げた。
ヴェロニカが、夜こうして訪ねてくるのは稀なことだった。
「ちょっと相談があって。」
ヴェロニカの声は重く、真剣だった。
彼女は室内へ足を踏み入れ、エレノアの向かいの椅子に腰を下ろすと、少しためらうような仕草を見せる。
「ねえ、ヴァイオレット様にアポを取ってくれないかしら。」
エレノアの手が書類の上で止まった。細い指がペンを握りしめる。
「……内容によるわ。なんの件かしら。」
エレノアは慎重な口調で問い返した。
彼女にとってヴァイオレットは、ただの恩人ではない。
深く尊敬する存在であり、不要な負担をかけることは避けたいと常に思っていた。
「……少し話をしたいのよ。バーデミアスの件で。」
その名前が出た瞬間、エレノアの表情が変わった。
穏やかだった目元が一瞬にして険しくなる。
「その件でヴァイオレット様を巻き込むのはやめて頂戴と伝えたはずよ?」
「……でも、一言伝えなくちゃいけないと思わない?」
ヴェロニカはエレノアをまっすぐに見据えた。
その瞳には揺るぎない決意が宿っている。
「先日の仮面舞踏会では大きな収穫があったわ。アイリーンに仕えていた侍女は、バーデミアスと通じているかもしれないの。」
エレノアの眉がさらに険しくなった。
「……そういうからには、確証はあるんでしょうね?」
ヴェロニカは一瞬口ごもり、次の瞬間、悪戯っぽくペロッと舌を出した。
「あなたまた……!」
エレノアは額に手を当て、ため息をついた。
「そうよ、勘よ。」
「ヴェロニカ……!」
「でも、間違っているとは思えないわ。だって、アイリーンが追わされた偽の借用書は、私の夫を嵌めたやり口と一緒なんだもの。」
ヴェロニカの声には怒りが滲んでいた。
その怒りは抑えきれないほど熱を帯び、部屋の空気さえも揺らすほどだった。
「あの男が絡んでいるに違いないわ!」
エレノアは、深いため息をつくと、目を閉じてしばらく沈黙した。
ヴェロニカの熱意も、その想いもよく分かっているつもりだった。しかし——
「あなたの熱意は、よくわかっているつもりだわ。」
「だったら——」
「でも、ヴァイオレット様のことは、そっとしておいて頂戴。」
エレノアの言葉は静かだったが、その一言に確固たる意志が込められていた。
「いいえ、ヴァイオレット様も知るべきだわ!」
ヴェロニカの声が上がる。激情に駆られたその言葉には、彼女の強い信念が感じられた。
「50年前! あなたを陥れたあの男が、今もたくさんの女性を苦しめてるってことを!」
「ヴェロニカ!」
エレノアはヴェロニカを鋭く嗜めた。その一言に、ようやくヴェロニカも我に返る。
部屋には沈黙が落ちた。長い沈黙の後、エレノアはゆっくりと口を開く。
「とにかく、ダメよ。わかって頂戴、ヴェロニカ。」
ヴェロニカはしばらく何かを言いたげだったが、結局言葉を飲み込んだ。
そして、悔しそうな表情を浮かべながらも、静かに立ち上がる。
「……わかったわ。」
短くそう呟くと、ヴェロニカは踵を返し、部屋を後にした。
その背中には、未だに燃え尽きない怒りと、押し殺した悔しさが滲んでいた。
「……お聞きでしたか、ヴァイオレット様。」
エレノアは深く息をつき、静かに虚空へと呼びかけた。
彼女の声は穏やかだったが、その中にはわずかな緊張が滲んでいた。
すると、空間が揺らめき、目に見えない力が渦を巻くように動き始めた。
やがてその波紋の中心から、しなやかに一人の女性が姿を現した。
「……そうね。とてもよく聞こえていたわ。」
現れたのは、長く輝くような白髪を腰まで流した、美貌の女性だった。
彼女の瞳は深い紫を帯び、穏やかでありながら、どこか底知れぬ力を秘めているように見えた。
見た目の年齢はエレノアよりも遥かに若く、それがさらに彼女の神秘性を際立たせていた。
エレノアは頭を下げ、重い表情で口を開いた。
「私の力が足りず、申し訳ありません。」
ヴァイオレットは軽く首を振り、その声音に微笑を滲ませた。
「いいのよ、エレノア。勝手に立ち聞きをしていたのは私だし。」
彼女の声は澄んでいて心地よい。それでいて、どこか現実離れした響きを持っていた。
「ヴェロニカは血気盛んで結構なことだわ。そのやる気を私にも分けてほしいくらい。」
ヴァイオレットは目を細め、楽しそうに言った。だがその瞳の奥には、深い憂いが滲んでいた。
「新しく入ったフォンテーヌ家の令嬢の話は聞いたわ。また、あの男は悪さをしているのね。」
「ええ、そのようです。」
エレノアは厳しい表情で頷いた。
バーデミアス——その名を口にするだけで、彼女の内に押し殺した怒りが静かに燃え上がるのを感じる。
「私と同じ歳なのに、落ち着くということを知らないのかしら。」
ヴァイオレットの声には、呆れとも諦めとも取れる調子が混じっていた。
しかし、その奥には冷ややかな怒りが見え隠れしている。
「ふふふ、私と同期で入った日のを昨日のことのように思い出すわ。」
「……ヴァイオレット様……。」
エレノアは慎重に言葉を選びながら、彼女の表情をうかがった。
ヴァイオレットが何を考えているのか、彼女にはまだ読み切れなかった。
「心配しないで、エレノア。無理をしているわけではないわ。」
ヴァイオレットは静かに微笑んだ。
「少し体が鈍っているなと思っていたところだから。」
彼女は軽く肩を回しながら、まるで昔を懐かしむような口調で言った。
「少し様子を見てみようかしら。」




