エピソード_36
エレノアは彼女を会合部屋の奥にある書庫へと導いていく。
古びた木製の扉が重々しく開き、中には古い書物や資料が所狭しと並んでいた。
エレノアは書棚の前で立ち止まり、一本の古いアルバムを取り出した。
「ヴァイオレット様は薔薇の会の創設者よ。」
そう言って、エレノアはそのアルバムをアイリーンの手に渡した。
「えっ?そうなのですか?」
アイリーンがページをめくると、そこには白髪の美しい女性の写真が収められていた。
鋭い目つき、しかし品のある微笑みを浮かべている。
「現在の年齢は七十歳。でも、とても若々しい方よ。」
エレノアの声には、尊敬の色が滲んでいた。
「薔薇の会は50年前に創設されたの。」
エレノアはそう言いながら、書棚に手を伸ばし、慎重に一冊の古びた本を引き抜いた。
革張りの表紙には、美しい薔薇の紋章が金箔で刻まれている。
彼女はそれを両手で抱えながら、ゆっくりと机の上に置いた。
「ヴァイオレット様は、王国史上最高の天才と言われた宮廷魔術師だったのよ。」
その言葉が口にされた瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰めた気がした。
「宮廷魔術師……?」
アイリーンは驚きに目を見開く。
宮廷魔術師といえば、王国に仕える選ばれし魔術師たち。国の繁栄を陰から支える存在だ。
しかし、それほどの人物がなぜ「薔薇の会」と関係しているのだろうか。
「ええ、ヴァイオレット様は素晴らしい魔術師よ。王国の研究機関を支え、戦争では数々の勝利に貢献したと伝えられているわ。」
エレノアの声には畏敬の念が滲んでいた。
「そんなすごい方が、なぜ……?」
アイリーンの問いに、エレノアはふっと視線を落とし、わずかに眉をひそめる。
「彼女は……婚約破棄をきっかけに宮廷魔術師を辞職してしまったの。」
「えっ、そんな……!」
アイリーンは思わず息を呑んだ。
エレノアの表情には、言葉にしがたい苦い感情が浮かんでいた。
「ヴァイオレット様は、婚約者に裏切られたのよ。」
それを聞いて、アイリーンは拳を握りしめる。
そんな理不尽な仕打ちを受けながら、彼女は何を思い、どんな気持ちでその日々を過ごしていたのだろう。
「ヴァイオレット様は、それでも高潔さを失わなかった。宮廷魔術師だった時の資産を、同じように離縁された女性たちの援助に使おうと考えなさったの。」
エレノアの言葉には、どこか誇りのような響きがあった。しかしその奥には、拭えない悲しみも潜んでいた。
「ここの宮殿も、ヴァイオレット様が建設したものなのよ。」
エレノアは周囲を見渡しながら言った。美しく荘厳なこの宮殿。
その壁や装飾のひとつひとつに、彼女の才能が刻まれているのだ。
「だから、この宮殿は外から見えないようになっているんですね!」
アイリーンは目を輝かせた。確かに、この場所はただの宮殿ではない。
魔術の結界によって守られ、外部からは存在しないかのように見える。
「そうよ。…でもね、彼女はあまりにも聡明だったがゆえに、婚約破棄のショックを完全に乗り越えられなかったの。」
エレノアは声を低くして言った。アイリーンは息を呑む。
「年々無気力になってしまわれたわ。今では自分しか出入りのできない塔に一人で暮らしていらっしゃるの。」
そこまでいうと、エレノアは本を閉じた。そして言葉を探すように俯く。
「でも、そんな立派な方が婚約破棄だなんて……! 一体どこの誰がそんなことを!?」
アイリーンは憤りを露わにした。しかし、エレノアはそれを見て複雑そうな表情をする。
「まあ、この話はここまでにしましょう。」
エレノアは静かに言った。
「ヴァイオレット様も、もうお年だから。機会があれば、ご挨拶に行きましょうね。」
アイリーンはまだ納得がいかない様子だったが、エレノアの言葉を受け入れ、静かに頷いた。
「さて、休憩も済んだことだし。講義に戻りましょうか。」
エレノアは元の調子を取り戻すように告げた。
「アイリーンには、そろそろ実践も経験してもらおうと思っているから。」
「えっ!?実践…?」
突然のことに、アイリーンは首を傾げて固まった。




