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エピソード_28

「……嫌です!」

アイリーンの声は震えていた。それでも、彼女ははっきりと拒絶を告げた。

「離して!」

彼女が叫んだ瞬間、一瞬だけ彼の瞳が揺れた。

だが、その迷いは一瞬で消え、再び険しい表情へと戻る。指の力がさらに強まった。

「君に話がある。来い。」

「…私の話は、聞いてくれなかったくせに!」

アイリーンは必死に抵抗し、腕を引いた。だが、ヴィクトールは離そうとしない。

その手には、彼女をどうしても手放したくないという執着がにじんでいた。


「私は夫とすでに離縁した身ですが…!」

アイリーンは深く息を吸い込み、ヴィクトールを睨みつけた。

「あなたが何者か存じ上げませんが、このような無礼は許されるものではありません!」

その毅然とした言葉に、ヴィクトールの顔が歪む。

「君は……。」

ヴィクトールの声はかすかに震えていた。

アイリーンは心が揺れそうになるのを必死に抑え、背筋を伸ばした。

彼女はもう、過去に囚われるつもりはない。


しかし、ヴィクトールは呆然とした表情で、アイリーンを見つめ続けた。

その瞳には、かつて見せたことのない悲しみが滲んでいた。

(どうしてそんな目で見つめるの…?私を追い出したかったんじゃないの?)

アイリーンは逃れたいと思いながらも、その強烈な視線に釘付けになってしまった。

その時だった。


「女性に乱暴するのはおやめ下さい!」

背後から響いた凛とした声が、会場の空気を一変させた。

華やかな音楽と人々の楽しげな笑い声が、まるで幕が下りるかのようにピタリと止まる。

ざわめきが次第に収まり、数えきれないほどの視線が、一斉にヴィクトールへと集まった。

(ルチアだわ……!)

アイリーンは振り向いた。

視線の先には、毅然と立つルチアの姿があった。

「この目で見ていました。」

彼女は鋭い眼差しでヴィクトールを見据えている。

その瞳には迷いがなく、強い意志が込められていた。

「女性の腕を掴んで、無理やり連れ出そうとしていましたね?」

ルチアの声は静かでありながら、確かな圧を持っていた。

「仮面をつけているからといって、何をしても許されるわけではありません。」

彼女のがそう告げた瞬間、周囲の女性たちの間から怒りの囁きが漏れ始めた。

「あんな風に腕を掴むなんて……!」

「紳士として、あり得ないわ。」

次第に声は大きくなり、会場中に広がっていった。

女性たちの鋭い視線が、まるで鋭い刃のようにヴィクトールへ突き刺さる。

その圧力に耐えきれなくなったのか、ヴィクトールの表情が徐々に強張っていく。

「……!」

ハッとしたように我に返り、彼は無意識に仮面を抑えた。

その仕草は、まるで素顔を見られることを恐れるかのようだった。


「今のうちに行きましょう。」

男の低く穏やかな声がアイリーンの耳に届いた。

彼女は驚き、反射的に顔を上げる。

仮面の奥に隠された男の瞳が、照明の下で静かに光を帯びていた。

「さあ、こちらへ。」

男は優しく手を差し出した。

周囲の視線がアイリーンに向かないように、絶妙な間合いで身をかわしながら進んでいく。

人混みを巧みに避け、まるでこの舞踏会の空間を知り尽くしているかのようだった。

「こちらです。」

やがて、男は重厚なカーテンの裏へと彼女を導いた。

そっと開かれる扉の向こうには、静かなバルコニーが広がっている。

煌めく月明かりが床に映り、夜風が心地よく頬を撫でた。


(助かった……)

アイリーンは外へ出ると、大きく息を吐いた。

屋内の喧騒が遠ざかる。

そこは、静寂と穏やかさに包まれた空間だった。

「ありがとうございます……あの……」

ようやく落ち着きを取り戻し、アイリーンがお礼を言いかけたその時。

「お礼はいいですよ。」

アイリーンを制するように男は微笑んだ。

しかし、ふと考え込むような仕草を見せる。

「まあ、でもそうですね。」

彼は視線を夜空へと向けた。

雲一つない空に、無数の星々がきらめいていた。

「そのうち返していただきましょうか。」

拍子抜けするような言葉に、アイリーンの瞳が見開かれる。

「そのうち…?」

彼女が問い返すも、男は何も答えない。

ただ、にこやかに微笑んでいた。


「またお会いしましょう。」

一礼すると、男は静かに身を翻した。

彼が扉の向こうへと消えていくのを、アイリーンは呆然と見送った。

(あの人は一体、誰……?)

月明かりの下、アイリーンは不思議な感覚に包まれたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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