エピソード_22
「おい!誰だここを掃除したのは!?」
ヴィクトールの怒鳴り声が屋敷中に響く。呼びつけられた侍女は震えながら謝罪した。
「申し訳ありません、旦那様!」
それを横目で見ていたレヴィは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
アイリーンを屋敷から追い出して以来、ヴィクトールの様子がおかしい。
いつも冷静で感情を表に出さない男だったはずなのに、最近は些細なことで苛立ちを隠せなくなっている。
使用人たちが何か失敗すれば、鋭い視線を向け、些細な物音にも敏感に反応する。
その怒りの矛先が次に誰に向かうのか、屋敷の使用人たちは怯えながら過ごしていた。
「旦那様はどうされたのかしら…。」
「あんなことがあったんですもの。しばらくしたら元に戻られるわよ。」
屋敷の中は、以前とはまるで違う雰囲気に包まれていた。
かつては格式と気品に満ち、穏やかな空気が流れていたはずのこの場所が、今ではどこか緊張感に満ちている。
使用人たちは無駄口を叩くこともなく、足音すら控えめになった。
「旦那様、そんなに苛立ってばかりでは、お体に障りますよ!」
エドワードは、そんなヴィクトールの機嫌を取ることと何度も試みた。
しかし、それは無駄な努力だった。
「黙れ、俺に構うなエドワード。」
ヴィクトールは彼を一瞥しただけで、再び机に向き直った。
「お前、自分の仕事は終わっているんだろうな?何をしに来た?」
それを見ていたレヴィは、不快感が増すのを感じた。
(あの女を追い出たところまではよかった。が、どうしてこうもいかないのか。)
ヴィクトールの態度はレヴィにとって計算外だった。
アイリーンと違って、ヴィクトールは政略結婚のつもりでいたとレヴィは思っていた。
しかし、今の彼の様子を見る限り、本気でアイリーンを愛していたことは明白だった。
(あんな女の何が良くて、ここまで惚れ込んでいるのか…。)
レヴィは不愉快な感情を止められずにいた。
アイリーンは確かに美しいが、それだけならば他の貴族令嬢にも同じことが言える。
(…思えばあの日もそうだった。)
レヴィはアイリーンを追い出した日のことを思い返した。
「離縁状を書いた…だと!?」
エドワードが得意げに離縁状を差し出した瞬間、ヴィクトールは激昂した。
「違う、それは交渉材料にするためにお前に持って行かせたのだ!」
「えっ…でも、旦那様、屋敷には入れるなと…。」
「アイリーンが反省するように持って行かせたのだ! まさかサインをするとは…。」
ヴィクトールは離縁状を見つめ、深く顔を覆った。
困惑するエドワードの後ろで、レヴィは無表情のままその様子を見ていた。
(『離縁状を突きつければ、奥様も反省するだろう』——そう進言するようエドワードに伝えたのは私だ。)
エドワードには今回の件で協力を仰ぎ、口止めのために莫大な報酬を支払っていた。
計画のためとはいえ、あのような男と手を組むのは抵抗感があったが、まだこの屋敷に来て日が浅いレヴィには選択の余地はなかった。
(目的を果たせばこの男も要済みだ。折を見て処分すればいい。)
レヴィは冷淡にそう考えた。
彼女の長年の夢がもうすぐ叶うのだ。なりふり構ってはいられなかった。
その後、ヴィクトールは彼女を秘密裏に探したようだったが、見つけられなかったようだった。
「奥様、暴漢に襲われたそうですわよ…。」
「足取りも掴めないなんて…。」
屋敷にはアイリーンが暴漢に襲われ、行方不明になっているという噂がまことしやかに流れた。
レヴィは、その噂は本当だろうと思っていた。
彼女は屋敷の近くに住むゴロツキに、匿名で情報を渡していたからだ。
『間も無く夫妻が離縁する、広場の近くを大きな荷物を持った女が行き来するだろう』
しかし、その報告を聞いた瞬間、レヴィの胸の奥に微かな違和感が生じた。
冷たいナイフを刺されたような痛みが広がる。
(これは……?)
彼女は目を閉じる。
その瞬間、小さかった頃のアイリーンの姿が浮かんだ。
「レヴィは私のお姉ちゃんみたいだわ!」
無邪気に笑いながら、幼いアイリーンがレヴィの手を握っていた。
(……何を考えている? 私は、あの女を追い出したかったはずだ。)
レヴィはその感情が何なのか、自覚できなかった。
(彼女の行方は誰も知らない。そして、私も彼女がどうなろうと興味はない。)
そして、レヴィは冷たい目で目の前のヴィクトールを見つめた。
ヴィクトールは今も彼女の残していった荷物を処分せず、そのままにしていた。
まるで彼女の幻影に取り憑かれたかのようだった。
(この男には失望した。離婚したことを、まさか悔やんでいるのか?)
そんな彼女の思考を遮るように、エドワードが楽しげな声を上げた。
「ほら! 招待状がたくさんきていたので持ってきたんですよ! 気分転換に行かれてはいかがですか?」
エドワードはたくさんの紙の束を持ってきて、ヴィクトールの前に差し出した。
しかし、ヴィクトールは興味がないように視線すら向けなかった。
その沈黙が、屋敷全体の空気をさらに重くした。




