エピソード_13
「あら、素晴らしい提案だわ!」
ヴェロニカはアイリーンの言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
対照的に、エレノアは面白くなさそうな顔をしている。腕を組み、じっとアイリーンを見つめた。
「……書類をしっかり読めるだけの知識はあるようね。」
アイリーンは一瞬、何を言われているのかわからず困惑した。
彼女の言葉は誉め言葉なのか、それとも皮肉なのか。
だが、エレノアが微かに口元を緩めたのを見て、何かが腑に落ちる。
(もしかして、これは……私を試していたの?)
先ほどまでの厳しい雰囲気が和らぎ、エレノアはアイリーンへ向かってこう告げた。
「試すようなことをして悪かったわ。あなたが自分の不利益を見定められるかどうかを見ておきたかったのよ。」
エレノアの言葉に、アイリーンは驚きつつも納得した。
盲目的に誓約書にサインするような人間ではなく、きちんと自分の立場を理解し、交渉する力を持つかどうかを試されていたのだ。
「それなら、最初からそう言ってくだされば……!」
思わず言いかけて、アイリーンは口を噤んだ。
もしエレノアが最初から意図を明かしていたら、自分はこんなに必死に考えたり、交渉したりしようとは思わなかったかもしれない。
「素晴らしいわ。誓約書の内容を指摘するだけじゃなく、交渉と提案までするなんて。」
ヴェロニカはアイリーンの肩を抱き寄せて、嬉しそうに言った。
「聞いた、エレノア?私が見込んだだけあるでしょう?」
その言葉に、アイリーンは胸の奥がじんわりと温かくなる。
それでも、まだアイリーンの不安が完全に消えたわけではなかった。
「じゃ、じゃあ……お金はいらないんでしょうか?」
エレノアは小さく笑い、ゆっくりと首を振る。
「ええ、入会の際にお金は不要よ。ただ、毎月出資金を頂くけど。」
「本当の誓約書はこっちよ。」
ヴェロニカが新しい紙を持ってきた。アイリーンはその誓約書へじっくりと目を通す。
『薔薇の会では、メンバーのサポートを受けられる。それはコミュニティや経済の知識など多岐に渡る。その代わり、毎月、売り上げを会に報告すること。そしてそのうちの5%を会に出資金として納めること。』
先ほどのものとは違い、実際に守れる現実的な内容だった。
アイリーンは安堵して、小さく息を吐いた。
「さて、アイリーン。薔薇の会について、もう少し詳しく説明しておくわね。」
ヴェロニカが手元の書類を整理しながら口を開く。
アイリーンは静かに頷いた。入会を決めたものの、まだ詳しいことはほとんど知らない。
「まず、このお屋敷についてだけど……これは薔薇の会のメンバーの一人から貸し出されているものよ。」
「貸し出されている……?」
アイリーンは思わず聞き返した。ヴェロニカが頷く。
「ええ、活動のためにね。それで、この屋敷はとても高度な魔法で隠されているの。外から見ればただの空き地の一部にしか見えないわ。」
アイリーンは目を見開いた。
「そんなことが……。」
「ええ、だからこそ安全なのよ。そうやって私たちみんなで管理をしているの。」
アイリーンは驚いた様子で辺りを見渡した。
屋敷のどこを見ても上流貴族の館と変わらない豪華さだが、まさか秘密組織の拠点として使われているとは思わなかった。
「そして、出資金さえ払っていれば、このお屋敷の中で生活することもできるわ。」
エレノアが続ける。
「そうなのですね……!」
アイリーンは安堵の表情を浮かべた。
行く当てもなかった彼女にとって、ここに住めるのは大きな救いだった。
しかし、エレノアは表情を引き締め、冷静に言い放つ。
「ただし、必要なものはすべて自費で賄うことになるわ。」
その言葉に、ヴェロニカがそばにあった扇を広げる。
「つまり、お金を稼ぐことは必須ということよ。薔薇の会は単純な慈善団体ではないもの。」
アイリーンは緊張した面持ちになる。
ここで生きるためには新しい道を探すしかないのだ。
「ここにいる女性たちはみな、それぞれの手段で収入を得ているわ。商売をしている者もいれば、社交界での活動を通じて支援を受ける者もいる。」
エレノアが真剣な眼差しでアイリーンを見つめた。
「改めて聞くわ。若いあなたにとっては酷なことも多い…。それでも、新たな人生を歩む覚悟があるの?」
アイリーンは一瞬だけ迷い、それから強い意志を持って頷いた。
「もちろんです!」
その瞬間、ヴェロニカが満足そうに微笑み、エレノアもわずかに口元をほころばせた。
「大丈夫。あなたにも、あなたに合った方法がきっと見つかるわ。」
「ええ、そのためにも経理の知識を身につけることはすぐにでも始めなければね。」
エレノアの目の奥がキラリと光る。アイリーンはその言葉の意味がわからず固まる。
「経理、ですか……?」
アイリーンは戸惑いながらも、小さく尋ねた。
「そう。商売をするにも、財産を管理するにも、基本的な知識がなければ何も始まらないわ。あなた、お金の流れを理解している?」
「う、それは…。」
アイリーンは言葉を詰まらせた。今まで、財産の管理はすべて会計係やレヴィが行っていたのだ。
自分の生活はすべて誰かが管理してくれていた。家の資産は潤沢で、不自由のない生活を送っていたが、それはあくまで他人の手によって成り立っていたものだ。
「まあ、大体想像はしていたけど……。大丈夫。今日から徹底的に叩き込むから。」
黙りこむアイリーンを見て、エレノアの目が鋭く光る。
アイリーンは緊張しながらも、覚悟を決めた。これが、自分の未来のために必要なことなのだから。
「私とは徐々に人脈を広げていきましょうね!」
その隣でヴェロニカが楽しそうに言った。
「人脈……ですか?」
「そうよ!あなたが新しい人生を切り開くには、人と繋がることが大切なの!」
アイリーンは顔を曇らせた。人脈の重要性は理解できる。だが、現実はそう簡単ではない。
「……私の離縁の話はすでに沢山の人が知っています。誰も私なんか相手にしてくれません…。」
部屋が一瞬静まり返る。
すでにアイリーンの離婚の原因は知れ渡っていた。
社交界に出ても、彼女に話しかける人すらいないだろう。
「そんなことないわ!」
しかし、それはほんの一瞬の静寂だった。
ヴェロニカは明るく笑い、優雅に扇を掲げる。
「心配しないで!私がいつも行っている仮面舞踏会に連れて行ってあげる!」
「仮面舞踏会……?」
ヴェロニカは楽しげにウインクをした。
「名前や身分を聞くのは御法度だから、あなたが誰なのか、気づかれようと関係ないの。きっとアイリーンも気にいるわ。」
仮面をつけて、別の自分として生きる——。
その言葉に、アイリーンの胸が高鳴った。過去の自分を捨て、新たな関係を築けるかもしれない。
「……行ってみます。」
アイリーンは小さく頷いた。
ヴェロニカは満足そうに微笑む。
「いい返事ね!じゃあ、素敵なドレスを用意しなきゃ!」
アイリーンの新たな挑戦が、また始まろうとしていた。
その夜、ルチアは仕事を終え、屋敷へと戻ってきた。
長い一日を終えた安堵感とともに、ゆっくり休みたいと思いながら門をくぐる。
しかし、屋敷の中に足を踏み入れた瞬間、ルチアは顔を強張らせた。
「……この匂いは……?」
思わず鼻をひくつかせる。いつもと屋敷の様子が違う。
(なんだか、嫌な予感がする……。)
彼女は不安そうな顔をして廊下を進んでいく。
そして、異変の元はすぐに見つかった。
「ちょっとヴェロニカ!自分の部屋でやりなさいって言ってるじゃないのよ!」
エレノアの甲高い声が、屋敷の静けさを破った。
ルチアが慌てて会合部屋へ入ると、甘い果実の香りとともに、強いアルコールの匂いが漂ってきた。
部屋にはワインの空き瓶が何本も転がっており、テーブルには豪華なグラスが並べられている。
その中心に、楽しそうに微笑むヴェロニカと、困惑して固まるアイリーンがいた。
「どうして?アイリーンがこの会に入ってくれたんだから、お祝いしなくっちゃ!」
ヴェロニカは片手にワイングラスを持ち、優雅に微笑む。
頬はほんのり紅潮しており、すでに何杯か飲んでいることは明白だった。
「会合部屋でしなくてもいいじゃない!この匂い!勘弁してよ!」
エレノアは鼻の上を押さえながら、ヴェロニカを睨んでいた。
「あら、ルチア!やっと帰ってきたのね!」
ヴェロニカはルチアに気づくと、パッと満面の笑みを浮かべた。
その様子にエレノアは心底嫌そうな顔をし、深いため息をつく。
「ほどほどにしなさいよ!片付けも念入りにね!」
そう言うと、エレノアは忙しなく部屋を出ていった。
ルチアはその光景を、ただ呆然と見つめるしかない。
「さあ、あなたたちも飲みなさい!」
しかし、ヴェロニカは意にも介さず、アイリーンとルチアにアルコールを勧める。
「私、お酒は……。」
困惑するアイリーンの前に、ヴェロニカはワインの入ったグラスを差し出した。
「アイリーン!あなたのためにたくさん準備したの!いっぱい飲んでね!」
アイリーンは戸惑いながらグラスと、足元に転がっている空き瓶を交互に見つめた。
ルチアは、そのほとんどをヴェロニカが飲んでしまっていることには、触れないようにしようと決めた。
(どうしよう……。)
アイリーンは途方に暮れながら、目の前の光景をぼんやりと眺めた。




