エピソード_10
「ここは会合部屋よ。」
ヴェロニカはアイリーンを大きな扉の前へと案内した。
扉は仰々しく、重厚な雰囲気を漂わせている。
ヴェロニカはその前で立ち止まり、アイリーンを一瞥した。
「会合部屋…?なんのでしょうか?」
「ちょっとした会よ。中に入ってから説明するわ。」
二人は、その重厚な扉を押し開く。すると、内側からは静かな空気が流れ込んできた。
「これは…。」
アイリーンは、部屋の雰囲気に圧倒された。
その部屋は、豪華さと威厳が見事に調和した場所だった。
壁や床には濃い赤のベルベットが敷かれ、ところどころに小さく金色の装飾がされている。
「すごい…。」
「そうでしょう?」
部屋の片隅には、古い本がぎっしりと詰まった書棚があった。
革装丁の重厚な書物ばかりで、その背表紙には難しい文字が刻まれている。
歴史書や経済書が並ぶその光景は、ここがただの社交の場ではないことを物語っていた。
「……あ。」
そしてアイリーンは部屋を見渡し、ある事に気づいた。
室内には燭台の淡い光が揺れ、壁には立派な肖像画がずらりと並んでいる。
そこに描かれているのは、年齢も装いも様々な女性だった。
「ねえ、アイリーン。気づいたかしら?」
アイリーンは小さく息をのんだ。
壁に飾られている肖像画には、よく見ると、見覚えのある顔があったからだ。
「もしかして、この肖像画のことでしょうか…?」
アイリーンが目にしたのは、かつて社交界で会ったことのある貴婦人たちだった。
しかし、その後の噂を思い返す。
突然の離婚、理不尽なスキャンダル、世間から姿を消した女性たち——。
ヴェロニカは静かに微笑みながら言葉を紡いだ。
「…彼女たちは皆、突然夫から見放され、何もかも失った女性たち。愛する人に裏切られ、社会からも追われた者ばかりよ。」
アイリーンはその言葉に息をのみ、肖像画を改めて見つめる。
彼女たちはただの絵の中の人物ではない。アイリーンと同じように、人生を狂わされた女性たちなのだ。
ヴェロニカは部屋の中央にある大理石のテーブルへと歩み寄り、その上に置かれた分厚い文書にそっと手を添える。
「私たちは『薔薇の会』。メンバーは全て離縁を言い渡された女性よ。」
アイリーンはその言葉に息を呑んだ。
「薔薇の会……?」
ヴェロニカはゆっくりと頷く。
「ここにいる女性たちは、それぞれ共通していることがあるわ。」
ヴェロニカは肖像画を見渡しながら言った。
その言葉に、アイリーンは真剣な表情でヴェロニカを見つめる。
「それは、理不尽な離婚によって人生を奪われたということ。」
部屋に静寂が訪れた。燭台の炎がわずかに揺れ、ヴェロニカの影を長く伸ばす。
「離婚とは、ただ夫婦が別れるということではないの。多くの女性にとって、家、財産、名誉、そして未来までも奪われる出来事よ。」
アイリーンの指先が小さく震えた。自分だけがこんな苦しみを味わったわけではない。
ここには同じ痛みを知る女性たちがいる。
ヴェロニカはそんなアイリーンの様子を見て、ゆっくりと続けた。
「昨日まで何不自由なく暮らしていた者が、一夜にして路頭に迷うことになる。場合によっては、理不尽な理由でね。」
ヴェロニカの言葉が静かに部屋に響く。
「…それがどれほどの苦しみか、あなたにはよく分かるでしょう?」
ヴェロニカは口元に笑みを浮かべながらそう言った。しかし、その目は笑っていない。
アイリーンは目を伏せた。まさに自分が経験したことだった。
「まあ、世間の言葉で言うなら……秘密結社というところかしら。」
「秘密結社…。」
思いもしない話にアイリーンは目を白黒させる。
秘密結社——そんなものはおとぎ話の世界の話だと思っていた。
けれど、目の前のヴェロニカは真剣な表情で語っている。
「冗談……ではないのですね?」
「ええ、冗談ではないわ。」
ヴェロニカは戯けたように微笑む。
「でも、そんな仰々しいものではないのよ。要は、離縁された者同士で助け合いましょうってこと。言わば、離婚同盟というところかしら。」
ヴェロニカはアイリーンの様子を見て面白そうに笑った。
「『薔薇の会』の目的は、離縁された女性の社会復帰のお手伝い。…それと同時に、ここにいる全員が、それぞれの目的のために活動をしているわ。」
「…目的ですか?」
アイリーンは不安げに尋ねた。
そういえば、と昨日助けてくれたルチアという女性の姿を思い出す。
彼女もまた、目的があってここにいるのだろうか。
「そうよ。離婚後の自分の立場を確立したい者もいれば、商売を始める人もいるわ。……あるいは、誰かにに復讐したい人も。」
「ふ、復讐……。」
ヴェロニカの言葉に、アイリーンは思わず息を飲んだ。
そんなアイリーンを面白そうに見つめながら、ヴェロニカは言葉を続ける。
「それは流石に極端な目的だけど…。でも、薔薇の会は、ただの集まりではないということよ。」
彼女は大きなテーブルの周りを歩きながら、書類の束を指で軽くなぞった。
「ここに所属する女性たちは、それぞれが経済活動を行って、財産を築いているの。」
ヴェロニカがそばにあった書類の束を一つ掴んで眺める。
「そして、稼いだお金の一部を出資することで、この会は運営されているのよ。」
彼女は、アイリーンを一瞥して不敵に笑った。
「周りの貴族は誰もこの会のことを知らないわ。私たちの影響下に置かれているとも知らずにね。」
アイリーンは息を呑んだ。貴族の世界は伝統と格式に縛られ、保守的なものだと思っていた。
しかし、目の前にいるヴェロニカの言葉が真実なら、この会はその表舞台を裏から動かしているということになる。
「あなたをここへ呼んだのは、偶然ではないわ。実のところ、私はあなたの離婚には何か大きな裏があると思っているの。」
「え……?」
アイリーンは驚きに声を詰まらせる。ヴェロニカは肩をすくめて微笑んだ。
「何も根拠はないんだけどね。ただの勘よ。」
そう言って、彼女はふと窓の外に目を向けた。
高い場所から見下ろす街の風景を眺めながら、静かに続ける。
「でも、私の勘はよく当たるのよ。」
アイリーンの心臓が早鐘を打った。
(私の離婚に……裏がある?)
思い返せば、不自然なことばかりだった。
突然の借金、そして、レヴィの裏切り。
(もしかして、本当に……)
胸の奥が熱くなり、これまでの悲しみと怒りが混ざり合ってこみ上げてくる。
「あなたには知る権利がある。誰があなたを陥れたのか。」
ヴェロニカは静かに、しかし確信を持って言った。アイリーンは震える手で胸を押さえる。
(ただ嘆いているだけでは、何も変わらない……)
その一つ一つの思いが、閉ざされていたアイリーンの心に火を灯すようだった。
「だからこそ、私はあなたにも薔薇の会へ勧誘しようと思っているわ。どう?何かしらの活動に参加してみない?」
ヴェロニカの瞳が鋭く光り、アイリーンを見つめた。
誰も助けてくれない。そう思っていた。けれど、この人は違う。
「……私に、できることがあるのでしょうか?」
アイリーンの声はかすかに震えていた。それでも、その中には確かな意志があった。
「もちろんよ。あなたにはその力がある。そして、ここにはあなたを助けてくれる女性たちもいるわ。」
アイリーンはヴェロニカを見つめる。
どうして彼女は、ここまで親身になってくれるのだろう。
初めて出会ったばかりの自分に、こんなにも温かい言葉をかけてくれるなんて。
「……ありがとう、ございます。私も、何かお役に立ちたいです。」
言葉が、自然に口をついて出た。
結婚してからの日々、どれだけ必死に生きてきても、すべてを否定され、追い詰められてばかりだった。
でも、今目の前にいる彼女は違う。彼女の言葉には、偽りのない力強さと、確かな信頼が感じられた。
「いい返事ね。」
ヴェロニカは満足げに頷いた。
目を細め、柔らかく微笑むその表情には、温かさと同時に、どこか誇らしげな光が宿っていた。
「では、まずはあなたにできることから始めましょう。」
その瞬間、重厚な扉がゆっくりと開いた。
ギィ……という低い音が、静寂に包まれた部屋に響く。
(誰……?)
アイリーンは反射的に振り向いた。背筋に緊張が走る。
「あら、エレノア。」
ヴェロニカが穏やかにその名を呼んだ。
アイリーンの視線の先には、険しい顔をした一人の女性が立っていた。




