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第8章

 それから一週間後、純哉が東京に戻るまでの間、家族が母親の病気について話すことはなかった。父親も絵美も働いており、母親も午前中はパートに出かけた。これまでも止めてきたらしいのだが、母親は「大丈夫、毎日働きに出たほうが生活にリズムがあっていいの」と聞かないのだそうだ。帰郷中、純哉はほとんど遠出をすることなく、外出すると言っても家の近所を散歩するくらいだった。実家は高台にあり、地元の街並みや海を一望することができた。純哉は飽きることなく二時間でも三時間でも缶コーヒーと煙草を手にその風景を眺めていた。しかし風景を眺めていても頭の中にあるのは母の病気、いや移植のことだった。自分のお腹にあるものを母のお腹に移す、それはこれまでの経験値からでは到底イメージできるものではなく、でもイメージするのを止めようとすると母親が亡くなってしまう映像が頭に浮かび、それを振り払うためにまた移植のイメージをするのだった。


 一度だけ純哉は父の自転車で長い坂を下りて海まで行った。帰郷初日に絵美と行った砂浜のある海ではなく、純哉がまだ高校生だった頃にできた、真新しい堤防だった。浪人生の頃、純哉はこの堤防をよく訪れた。訪れてはいろいろなことを考え、悩み、そして決めてきた。大学進学を諦めて、東京へバンドをしに行こうと決めたのもこの堤防だった。久しぶりに堤防までやってきて、「東京」と「バンド」というのは自分の逃げ場だったということに気づいた。思い返してみても、多分「東京」である必要性はなく、「バンド」なんて、すでに高校生のときに、自分の可能性の無さを知っていたはずだったのだ。結局上京したのは、当時の自分とそれを取り巻く環境に嫌気がさしていて、そしてこのままだと化石にでもなってしまうような、そんな気がしたからに他ならなかった。それが分かった上で、東京で生活する自分のことを考えると、むなしさを通りこして笑いさえ出てくるのだった。いったい何故君はそこにいるんだ?純哉は自分で自分に質問した。手にしていた煙草を携帯灰皿でもみ消して、海に向かって大きく伸びをして胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。そして海から家がある方向に振り返り、「東京、もういいよな」と自分に向けて言った。


 東京に帰った翌日、出勤してから上司に大体の状況を説明した。そして地元に帰るつもりだということを告げた。

「長期で休む、っていうことも不可能じゃないよ。今は就職も難しいし、地元だとなおさらでしょ?」

「はい、でも帰ろうと思います。事情が事情なので、先延ばしするわけにはいかないんです。いろいろ良くしていただいたのに、こんなに突然な話でたいへん申し訳ないんですが」

「そうか、お母さんのことだもんね。あっちで仕事のつてとかあるの?」

「いえ、ないです、でも仕事は何とかなると思います。母については、もう今帰っておかないと、これからどうなるか分かりませんが、僕は一生後悔すると思うんです」

「うん、そうだね。分かった。これまでよくやってくれたしね。社長にはよく伝えておくよ。退職はいつにする?」

「一ヶ月後でお願いします。申し訳ないんですが、使ってない有給を使わせていただいて、実際はもうちょっと早く帰れたらって思ってます。わがまま言ってすみません」

「オッケー、分かった。じゃそうしよう。残り少ないけど、引継ぎとかよろしくね」

 純哉は東京に出てきて、その会社に勤めることができただけでも意義があったと思った。社会人としての生き方を学ばせてもらえて、技術とか知識とかだけじゃなく、人情やわびさびも働く上で必要なのだと教わった。もし、いつか自分が人の上に立つようなことがあったら、同じように思ってもらえるような上司になりたい、純哉はそう思っていた。

 その日の仕事帰り、元バンドマンの同僚と下北沢にある行きつけのダイニングバーへ飲みに行った。純哉は焼酎を、同僚はジントニックを浴びるほど飲み、久々にめちゃくちゃに酔った。とりとめも無い話をたくさんして二人ともよく笑った。泊まっていけよ、と言ったが同僚はタクシーで帰ると言った。「男の家では眠れないんだよ俺」、そう言って笑う同僚に純哉はそれとなく尋ねた。

「あのさ、どう思ってるか分からないんだけど、俺たち、何ていうか波長みたいなものが合ってたと思うんだ。何でなんだろうな?」

同僚は一瞬空を見上げ、そして純哉を見て言った。

「唐突に恥ずかしいこと言うからびっくりしたよ。でもさ、当たり前じゃん、俺たちほら、根本的にバンドマンって種族だろ」

「バンドマン、って種族?」

「そう、今バンドやってるやってない、じゃなくてさ、過去にすんげぇバンドってものに憧れて、その憧れの中で生きてる、そんな奴らのことだよ。そういうのはさ、隠したって分かるもんなんだ」

 同僚を乗せたタクシーを見送り、完全に見えなくなってから純哉は自宅へ向けて歩き出した。「バンドマンって種族だろ」、そんな同僚の言葉を、夜の下北沢の街を抜けながら何度も思い出していた。そして少しだけ、誇らしい気持ちになっていた。


 もう一人、純哉には話をしなくてはいけない人物がいた。彼女だ。そういえば帰郷前の日曜日以来、いっさい連絡を交わしていない。家に着いてシャワーを浴び、ビールを開け、ひと口だけ飲んでからメールした。今度の日曜はどうする?そんな内容の簡単なメールだった。自分のことは何も書かなかった。

 次の日曜日になってもメールの返信はなかった。もしかしたら送れてないのかな?と純哉は何度も携帯電話を確認した。でもメールはしっかり送られていて、返信は来ていなかった。呼吸器のフィルターがつまりかけたような、少し苦しいような気がしたけど、あまりよく考えないようにした。朝食をとり、洗濯を済ませてから一服し、それから純哉は彼女に電話した。十コールを越え、あきらめて切ろうとしたとき彼女が出た。

「もしもし久しぶり、何してたの?」

「ん、何も別にしてない」

「そう、あ、メール届かなかったかな、こないだ送ったんだけど」

「届いてる」

「そう。じゃなんで返事くれなかったの?」

彼女はそのまま沈黙してしまい、純哉は胸の下の方に絡まった糸の固まりのような形をした、重苦しいものがずっしりと蓄積されていくのを感じた。

「今、ひとり?」

返事は無い。

「誰か一緒にいるの?」

彼女の後ろから「代わろうか」と男の声がした。純哉は聞こえないようにため息をつき、そのまま電話を切ろうとした。でも気を取り直し、一度だけ深く深呼吸をして話し続けた。

「俺さ、地元に帰るんだ。四年間こっちにいたけど、東京引き上げるんだ」

「え?どうして・・・」

なんとなく彼女の声のトーンが変わった。

「理由は、特に無いんだよね。ただちょっと前から決めてたんだ、実は。期限、みたいなもの」

純哉は母親のことは言わなかった。そして少しだけ嘘をついた。

「そう、なんだ。いつ?」

「ん、来週末くらい」

「もう、すぐだね」

「そうだな。じゃ、ちょっと出かけるからもう切るよ。元気でね」

「うん、純哉も」

 電話を切った後、少し胸が痛んだ。携帯電話のメモリから彼女の情報を消して、煙草を一本吸った。そして横になると胸のところにあった糸の固まりが燃えて、熱の塊になっていくのを感じた。その熱を感じながら、「サヨナラ」と一言呟き、純哉は目を閉じた。短くて深い眠りが純哉の元を訪れた。

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