第7章
三十分程して絵美が「家へ帰ろう」と口を開くまで、二人ほとんど動きもしなかった。絵美が砂をはらって立ち上がり、海に背を向けて歩き出した。純哉は絵美がいた場所から一旦海に視線を移し、一度大きく呼吸してから車へ向かった。
純哉が車に乗り込んでからも、絵美はなかなかエンジンをかけようとしなかった。
「俺、運転しようか」
「まだ死にたくないからいいよ」
そう言って絵美はやっとエンジンをかけた。
「走りながら話せそうにないから今話すけど」
カーステレオからはアリスが流れていた。アリスの歌って、なんかすごい直球だな、純哉はそんなことを思っていた。
「移植の話ね、実は一度母さんとしてるんだ」
純哉は絵美の顔を見た。絵美も純哉の顔を見た。そして再びフロントガラスに目を向け話し始めた。
「母さんがいないときに医者に言ったの。母をどうしても助けたい、って。そしたら、生体肝移植しか方法はない、って言われた。私はそれで助かるなら移植するって言ったの。体に傷がつくことなんてどうでもいい、って」
純哉は知っていた。純哉が中学を卒業するくらいから高校を卒業するくらいまで、絵美には大好きな彼がいた。洋服を買いに出かけたついでに、普段だったら絶対入らないような小洒落た喫茶店に何故か足が向いた。通されたテーブルの隣の席に絵美と彼がいた。絵美はあまりの驚きに立ち上がり、「む、むしのしらせ?」と間違った言葉を使う純哉を呆けたように見つめ、それからうなだれた。彼は笑い「いつも言ってる絵美の弟?こっちおいでよ」と純哉を誘った。純哉と絵美は限りなく気まずくなった。絵美は純哉に「家でこのこと言わないでよね、絶対面倒臭いことになるんだから」と言った。純哉は「なんで?」と聞きそうになったがきっとはたかれると思いただ頷いた。しかしそれ以来、意外なことに絵美は純哉に彼の話をよくするようになった。きっと話したかったんだな、ならみんなに言えばいいのに、純哉はそう思ったがきっと大人の事情があるのだろうと黙って嬉しそうに話す絵美の話を聞いた。
ある時、純哉が部活で遅くなった帰宅途中、偶然絵美と一緒になった。「絵美姉ちゃん」、声をかけ横に並ぶと絵美の目が泣き腫れているのが分かった。絵美はいつになく優しい顔をして言った。
「彼ね、外国に行くの。長い間、いつまでなのか分からないの。私は待ってるって言ったんだけど、彼は首をふって、お互いのために別れよう、って言ったの。私は頷いたの。よく、意味が分からなかったけど、頷いたの」
絵美は声もなく肩を震わせて直立したまま泣いていた。純哉はただそれを見つめていた。
その後、絵美には付き合っている人がいない。四年ぶりに会って今も誰もいないことが純哉には分かった。まだ記憶の中の彼から離れられずにいるのだ。好きになりすぎるのは酷なのだと思った。純哉は絵美の別れ話を聞いたときから、絵美がいい人とめぐり合い、その人のことを好きになり、二度と離れないようになれればいいと思っていた。絵美は来年三十だ。どんな傷か分からないが、そんな絵美の体に傷をつけてはいけないと純哉は思った。そのことを伝えようか迷っているうちに再び絵美が話し始めた。
「でもね、先生は『アナタの体の傷以外にも非常に大きな問題があります』って言うの。それはね、手術後の生存率のことだった。移植をすれば助かる、というのは間違いで、移植をすれば助かる可能性がある、というのが正しい答だった。そしてその答にはPSがあって、手術をすることにより感染症などで三割の人が亡くなる、ということだったの。母さん今まだ家に居られる状態でしょ?例えば何もしなければ、五年は難しいかもしれないけれど、二年後だったらもしかしたら生きているかもしれない。でも手術をすることで、母さんはもう来月いないかもしれない。私は父さんにそのことを言ったわ。父さんと私は二人頭を抱えた。答が何処にもないの」
純哉はフロントガラスに映る自分を見つめたまま黙って絵美の言葉を聞いていた。
「結局、私が父さんに言ったの。何もしないで終わるより、何とかしようとトライしたほうがいい、母さんもきっとそう思ってくれるはずだ、って。でもね、その言葉は私の中できちんとした形で出た答じゃなかったの。このまま何も決まらず、あぁでもない、こうでもない、なんて言いながら密かに母さんを見ないふりをしている気がして、怖くなって口から出た言葉だったの。そしたら父さんが『お母さんと一緒に可能性について話してみよう』って言った。そして『これからはお母さんと一緒に考えて決めていこう』って言った。私と父さんはそこに辿り着けたことで随分楽になった」
「お姉ちゃん、ごめん」
絵美は純哉を見て、軽く微笑み、再びフロントガラスに顔を向け話し続けた。
「私と父さんと母さんは初めて向かい合って病気のことについて話をした。余命っていう言葉を具体的に口にはしなかったけど、非代償性肝硬変のことを細かく話していけば、余命の話をしているのも同然なのよね。最初父さんが話す予定だったんだけど言葉につまってしまって、私が母さんに話した。ドキドキしながら話す私に対して、母さんは穏やかだった。私ね、いけないことだけど少し苛立ったの。母さんのことで一生懸命なのに当の本人が関係無いような顔をしていたから。統計上のことまで話して、やっと生体肝移植の話をしようとしたら突然母さん口を開いたの。『子供の体傷つけてまで母さん生きるのは嫌なの、ごめんね絵美』って。私言葉を失ったわ。何とかして言葉を繋ごうとしていると母さんは『疲れたからもう寝るね』と言ってその場を去ってしまったの。私と父さんはお互い何も言えなくて、何とか口にできたのは『おやすみ』って言葉だけだった」
絵美はそこまで話すと何も言わずにウィンカーを出して車を発車させた。二人は再び言葉を失い、それぞれの世界に閉じこもった。純哉は視界の端から端まで広がる闇を見つめ、世界中にどしゃぶりの雨が降ることを願っていた。