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第6章

 母は痩せていた。純哉が記憶していた母の姿はそこにはなく、顔も腕も足もうっすらと骨の形が見えていて、父の言うようにお腹だけが大黒様のように膨れていた。純哉は思わず持っていたおみやげの東京バナナを落としてしまい、後ろから絵美に頭をはたかれた。

「ただいま、お母さん」

「お帰りなさい純哉。よく帰って来たねぇ。疲れたでしょ、ほら立ってないで座んなさい、コーヒー入れてあげるね」

 絵美が「私がやるからいい」と言ったが、大丈夫だと言って母は台所に立った。

「後で話すから余計なこと言わないでよ」と絵美から睨まれ、「分かってるよ」と純哉は小声で答えた。

 母が台所から戻ってくると、久々に一家団欒の形となった。母に東京での暮らしのことを聞かれ、「バンドをやる」と言って上京した手前、どう答えていいか分からなかったが、とりあえず事実を話した。バンドはやっていないこと、上京当時、二つアルバイトをしてお金を貯め吉祥寺に住んだこと、居酒屋で働いたこと、転職して今は不動産屋で働いていること、一応彼女がいること、いくつか省略し、少しだけニュアンスを変えて東京の話をすると、「よくそこまでがんばったね」と母に褒められた。純哉は、何だか後ろめたいような、少し複雑な気持ちになった。

「彼女はいい人?」

 よく分からなかった。いい人なのか悪い人なのか、でもとりあえず、いい人だと答えた。

「それはそうと、母さん具合はどうなの?だるい?」

「そりゃね、これだけお腹にお水溜まってるから重いし、少しはだるいねぇ。でも普通にお買い物とかもいけるし、休み休みやってれば大丈夫よ。純哉こそ今まで忙しくて帰って来られなかったんでしょ?久しぶりに帰ってきたんだからゆっくりしなさいね」

 忙しくて帰って来られなかったわけじゃない、ということを言おうかどうか迷っていると絵美に机の下で足を蹴られ、純哉は頷いた。


 夜は鍋をすることになった。純哉が母の器にポン酢を入れようとすると父に止められた。

「塩分駄目なんだよ。一日に摂取していい量はほんのちょっとなんだ」

 鍋は昆布で出汁をとっただけのもので、母は具材を酢につけて食べた。それも少しだけ食べてやめた。腹水のせいであまり入らないらしい。母が薬を飲んでいたので、純哉は何の薬なのか訊ねた。

「これ?利尿剤って言ってね、オシッコを出す薬。オシッコの出が悪くなってアンモニアが脳に行くと、お母さん、ぽーん、ってバカになっちゃうの」

 そう言って母は笑い、父と純哉はひきつって笑い、絵美は顔は笑いながら、純哉の足を強めに踏んだ。


 食事の後、久々の姉と弟みずいらず、という名目でドライブに出かけた。

「お母さんちょっと疲れたからもう寝るからね。気をつけてね」

 玄関まで見送りにきた母に記憶の中の母がだぶり、純哉は四年間の重さを痛感した。

 絵美が運転する車は国道を海に向けて走っていた。助手席の純哉は話し掛けようとしたが止めた。連続した街灯に照らされた絵美の瞳に涙が浮かんでいたからだ。絵美も純哉も、海に着くまで一言も喋らなかった。

 海に来たのは久しぶりだった。東京へ出てからは一度も行ったことがなく、地元でも高校二年生の夏の夜、友達と花火をしに来たのが最後だ。純哉は車の中で靴と靴下を脱ぎ、首にタオルをかけ波打ち際まで歩いた。夜の海水は夏とはいえど少し冷たかった。太陽の光を受けた日中の海は人の心を開放させるが、夜の海はまるで深い闇の谷のようで、一度踏み込んだが最後、二度と戻れないような気にさせる。その闇の底にはいったいどんな世界があるんだろう、そんなことを想像すると純哉は少し怖くなり波打ち際を離れた。

 絵美は砂浜に座って月が出ている方角を見ていた。純哉が絵美のところに戻ると、絵美がコーラを放ってよこした。純哉は絵美の隣に座り、二人並んで海と向かい合う形になった。コーラのプルタブを開けて、絵美に向けると、絵美もその表情をやっと崩した。「乾杯」。そして絵美が言った、「純、お帰り」。純哉はしばし姉の顔を見つめてから言った、「ただいま」。

 四年ぶりに出会った姉と弟は思い出話に浸った。それから純哉が母に話したときには省略した居酒屋の彼女に絡む話をすると、絵美は腹をかかえて大笑いした。

「見る目が無いねぇ、あんたも。それどう考えても遊ばれただけじゃん。まぁ、でも純哉だもん、しょうがないね」

「純哉だもん、ってどういうことだよ」

 自分にとってのシリアスが、姉にとってのコメディになっていることに純哉は腹を立てた。そんな膨れっ面になった純哉を見て、絵美はなおも噴き出した。それにつられて純哉も噴き出してしまった。二人は同じように笑い、そしてしばらくしてからどちらからともなく静かになった。波が規則的なリズムを刻む中、闇の海にラインを描く月の光を見ながら純哉が尋ねた。

「母さんの命、本当に半年なの?」

絵美がコクンと頷いて答えた。

「母さんは知ってるの?」

「知ってる。余命なんて言葉、医者や家族が母さんの前で使うことはないけど、母さんほら、インターネットやるじゃない?自分で調べたのよね。『母さんあと一年もたないかもね、ごめんね』なんて言われたよ。父さんも私も無言になっちゃって、そのうち二人とも泣き出しちゃって、泣いてないのは母さんだけだった。」

「そうか。父さんからちょっとは聞いたんだけどさ、ヒダイ、何だっけ、その病気はホントにどうしようもないわけ?」

「このままだとね。私も医者に聞いたわ、まだ普通に生活できてるんだから五年、十年は生きるんじゃないかって。そうしたら言われた。一年、二年先、もしかするとこのままでもお母さんは生きているかもしれない、でも五年先、十年先というのは九十九パーセント無い、って。例えるなら母さん、爆弾を抱えているようなものだそうよ。いつ弾けてもおかしくない、そんな状況なんだって」

「なんだよそれ、じゃあその爆弾が弾けるのを待ってるしかないわけ?」

「だからさ、言ったでしょ、このままだとね、って。あるよ方法は。っていうかそれしか無いんだけど」

「あるのかよ、じゃそれやりゃいいじゃん」

「落ち着いてよね。悪いけどこっちはアンタがいない時期ずっと考えてきてるんだから」

「あ、ごめん。でもさ、方法があるのに何でやらないの?」

「生体肝移植」

「え?いしょく?」

「生体肝移植、つまり生きてる元気な人間の肝臓を切って移植するの」

「移植、か」

「そう、それでね、移植元は家族じゃなきゃいけないの。そして血液型が同じであることが望ましいの」

「家族で、血液型が同じ。母さんはB型。家族でB型なのは・・・」

「そうよ、アンタとワタシ」

 純哉は黙り込んでしまった。俺の肝臓をやる、気持ちの奥底ではそう思っていた。喉まで出かけた。しかしその気持ちは唇の先まで辿り着かなかった。自分の肝臓を取り出すということをどうしても現実として捉えられない。純哉は口を開こうとしては閉じ、開こうとしては閉じを繰り返し、そのうち口がまるで自分の意思の届かないところで動いているような気になっていった。絵美は膝と膝の間に頭を埋もれさせてうつむいたまま。そんな二人の感情を微塵も気にすることなく、海は無表情に一定のリズムで波を運んでいる。

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