第5章
今すぐアンタが帰って来たってどうなるわけでもない、そう絵美に言われたが、純哉はいてもたってもいられなかった。その日のうちに荷物をまとめ、翌朝空港から会社に電話で事情を説明し、飛行機に飛び乗った。休みも遅刻もなく、いつも勤勉に働いていたおかげで会社からは文句ひとつ言われなかった。それどころか、「少しゆっくりしておいで」、上司のそんな言葉を受け、お礼を言いながら純哉は少し泣いてしまった。母さんの命が半年、まったく現実感が湧かなかったが冗談ではないということは分かっていた。自分が下らない歳月を過ごしている間に母さんが病気になっていた、純哉はそう思い自分を責めた。連絡だけでもしていれば、もっと早く知れたはずだったのに、そうしていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに、そう思うと限りない後悔が溢れ出し、つくづく自分を下らないと思った。
空港には父親が車で迎えに来てくれていた。到着ロビーで久々に顔を合わすと父親はぎこちなく手を上げ、これまたぎこちなく微笑んだ。
「元気にしてたか?」
「うん」
高速道路を走る車内、ずっと二人は無言だった。窓の外には四年前、東京に旅立つときにも見たであろう景色が広がる。カーステレオからはアリスが流れていた。
「母さん、今もアリス好きなのかな?」
「ん?おぉ、アリスな、どうだろうな、好きなんじゃないかな」
「お父さん」
「ん?」
「ごめんなさい」
「何を謝るよ。お前はひとりで生活してきたんだろ。がんばったじゃないか」
車内はまたしばらく無言になったが、さっきと違い気まずい感じはなくなっていた。高速を出てしばらく走ると見慣れない街並みにさしかかった。
「ここって○○町だよね。ずいぶん変わったね」
「そうだな、ここらへんはここ二、三年で随分開けたな。家が建って、店ができて、交通の便もよくなった。これからもっと開けるだろうな」
「だよね、昔はこんなイメージ無かったよ。すごいな。二、三年ってそう思うと長いね」
「そうな、長いな」
純哉はためらいながら尋ねた。
「母さん、何ていう病気なの?」
「非代償性肝硬変」
「ヒダイ、ショウ?」
「非、非常口の非、代償性の肝硬変、肝臓がカチカチになる病気だ」
「肝臓の病気なのか」
「そうだ、肝臓の病気だ」
父によると、母の病気は三年前に発症したとのことだった。最初は食道静脈瘤という、食道の粘膜下層の静脈が太くなり破裂の危険性を伴う病気になって手術をした。それ自体、肝硬変の症状が起因となったものだった。それから少しずつ疲れやすくなっていき、お腹に腹水という液体が溜まりだした。肝臓の機能が低下していき、代償性から非代償性へと肝硬変の診断内容が変わった。非代償性とは、回復はもう期待できず、現状をどうにか維持するか、悪くなるか、という症状であるとのことだった。純哉は肝臓のことなんてまったく知らなかった。お酒を飲むと肝臓が疲れる、くらいにしか思っていなかった。でも肝臓は多種多様な機能により人体を制御しており、命の鍵を握っていると言っても過言ではない臓器だ、ということを父の説明から知った。母の中のその臓器は今固まりかけていて、それが完全に固まったとき、命は途絶える。純哉は窓の外に目をやり、母の肝臓のことを想像した。形さえよく知らなかったが、それは純哉に、忘れ去られた僻地にある、冷え切った暗い工場を思わせた。