第3章
純哉は吉祥寺の外れにワンルームの、一応“マンション”と呼ばれる物件を借りた。がむしゃらに働いた数ヵ月を経て、アルバイトも二つから一つに減らし、なんとかまともな暮らしができるようになっていた。そして生活が軌道に乗っていくのと逆行して、当初の目的だった「バンドをやる」という意思はどこか別の時空へ、ひっそりと溶け込むように消え失せていた。
バイト先の居酒屋で彼女ができた。忘年会がきっかけで、そのとき彼女は前の男と別れたばかりだった。
純哉が二次会でカラオケを歌うと「上手いねぇ」と言い、頬を紅潮させて隣に座ってきた。
「バンド、やってたから、高校のとき」
「ふーん。こっちではやんないの?」
「…バンドとかほら、なんか必死な感じするじゃない?俺、そういうの卒業したんだ」
「よくわかんないけどそうなんだ。ねぇ、九州の人でしょ?何でこっち来たの?」
「ん?何でかな。何となく、かもな」
純哉はそう言って余裕のあるフリをしたが、胸の奥のどこかで後ろめたさを感じていた。
二人で三次会しよう、そう言って彼女は純哉のワンルームマンションまでついてきて、そのままそこに居ついた。それからしばらくして二人は正式に(何が正式で何が不正式かは不明だとしても)同棲することになった。「前の彼とも同棲していて、でも彼が浮気したから別れて、それから荷物は一時的に友達の家に預けていた」と彼女は言った。純哉は騎士にでもなった気分で彼女を優しく抱きしめた。
仕事もプライベートも毎日彼女と過ごすうち、地元のことは全く思い出さなくなっていた。居酒屋で働いているとき以外は、彼女やバイト仲間とカラオケやボーリングをして過ごした。たまにクラブへも行ったが、彼女が他の男と親しげに、近い距離で話すのを見るのが嫌だったのであまり乗り気では無かった。でもそんなことは口にしなかったし、否定もしなかった。
稼いだお金はほとんど残らなかった。給料日前は、居酒屋の“まかない”の他はお菓子を食べて過ごすこともあった。自分が東京に馴染んできた気もして、そんな日々に純哉は結構満足していた。
同棲からもうすぐ一年が経とうとしていたある日、数日後に控えた彼女の誕生日に渡すためのお揃いのチョーカーを買って、「どこに隠しておこうかな」などと考えながら部屋のドアを開けると、荷物ごと彼女はいなくなっていた。「二人のもの」と言っていたゲーム機も無くなっていた。
アルバイトの休憩時間に純哉が非常階段で問い詰めると、「○○と付き合うの。ごめん」と彼女は言った。○○は居酒屋の店長だった。質問をしたまま固まってしまった純哉の横をすり抜けるようにして、彼女はその場を立ち去った。
「お前は知らなかったかもしれないけど、あの二人もう半年くらい前からよく会ってたよ」
バイト先の仲間からそのことを聞いたとき、同棲中の色々なことの辻褄が合った。半年前くらいから彼女はよく外泊した。
「友達が恋愛のことで悩んでてさぁ。純哉も大事だけど、やっぱり友達も大事だしね」
友達思いの優しい彼女、一生懸命そう思い込んでいた。実際、ボロは出るかぎり出ていたはずだったのに。
純哉はひとりになったワンルームマンションで、生まれて初めて絶望を感じた。自分が何処にいるのかさえ時折分からなくなって、外に出かけることができなくなり、彼女が出て行ってから一週間後にバイトを辞めた。バイト仲間から二、三通メールが届いたが返信はしなかった。そしていつしか誰からも連絡は来なくなった。マンションの裏手にあるコンビニで、安い発泡酒とワインを買いこみ、毎日意識が途切れるまで飲み続け、泣いて、泥に沈んでいくように眠った。
ある日、明け方前に目を覚ますと雨が降っていた。どしゃぶりの雨だった。雨は窓から見える風景を飲み込んでしまうかのように激しく降っていた。窓を開けると雨の香りが流れ込んできた。その香りは、純哉の中にあった傷を中和して液体にし、そして血液の中へ、発熱を伴いながらジワリと染み込ませた。目を閉じると、建物や道路や電線や郵便ポストや車やガードレールや、そんな人の手で作られたものが一切消え去って、森の中でひとり、雨が奏でる音楽を聴いているような気持ちになった。
しばらくして、純哉はふと思い出したように立ち上がり、クローゼットの中からリュックを取り出すと、そこから底に入ったままだった母からの手紙を取り出した。「いつでも帰っておいで。がんばってね」、純哉はそれを繰り返し、何度も読んだ。便箋は丁寧に折りたたみ、手帳に挟んだ。そして視線を窓の外へ戻し、純哉は長い間降り注ぐ雨を見つめ続けていた。