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第21章~最終話~

 レシピエント、ドナー双方の二回目の同意書を提出し、父親と絵美はホテルへ戻って行った。純哉は部屋に戻り、ベッドの上から窓の外の暗闇を見つめていた。その暗闇を、次に光が覆い尽くした日、純哉の肝臓が母親へ移植される。母親は、遠い昔に父親と出会ったとき、二人が愛し合うことで生まれた子供から、将来肝臓をもらうなんて思いもしなかっただろう。もしかすると、父親と巡り合っていなければ、母親は移植を受けることができなかったかもしれないのだ。純哉がそんなことを思い、運命を感じ、自分の中の何処か深い部分に触れることができたような気がしたとき、お腹から低音の小太鼓の連打のような音がした。

「あ、忘れてた」

 十四時に飲んだ下剤は純哉の体に確実な効果をもたらした。油断をしていた純哉は、危うくベッドの上で極めて厄介なことになりそうなのをなんとか回避し、なるべく力を入れないように、ベッドから降り、ぬき足、さし足でトイレに辿り着いた。その滑り出しは、思わず純哉の口から、「わ、わわ、わぁわぁわわわわわ」という言葉が出た程快調なものだった。様々な思いを一気に超越した生理現象の凄さを思い知り、ぐったりした純哉はその夜ぐっすりと眠った。


 翌朝、純哉は六時に浣腸をした。しかし前夜の下剤がよっぽど効いたらしく、もうほとんど出るものは無かった。顔を洗い、髭を剃り、歯を磨いた。ひとつひとつの動作を丁寧に行った。見方を少し変えれば、普段の何気無いこともずっと興味深くなるんだ、と純哉は思った。朝日を浴びながらストレッチをしていると絵美が部屋に入ってきた。

「おはよう、弟よ」

「おはよう、姉ちゃんよ」

「どう、調子は?夕べは良く眠れた?」

「調子は絶好調。夕べは良く眠れた」

「さすがね。私がよく眠れなかったのに」

「あのさ、姉ちゃん下剤飲んだことあるか?」

「何?すごかったの?私まだ飲んだことないな」

「あぁ、人生に迷ったら飲むといいよ」

「何それ。相変わらずバカね」

「うるせぇ」

「純哉、ほい」

 純哉に姉の手が差し伸べられた。純哉がその手を握り、二人は固い握手を交わした。

「本当にありがとう。私は、アンタの姉であることを誇りに思う」

「そんな、大げさだよ。でも俺も姉ちゃんに対してはそんな感じだよ」

「素晴らしい姉と弟のやり取りね。ぞくぞくするわ。こんなの一生無いわよ」

「だな」

「じゃ、母さんのところ行くよ。また後で」

 絵美が出ていってから純哉はポータブルプレーヤーを取り出し、アイルランドのロックバンドの曲の中で一番好きな曲を聴いた。しょせん、とか、結局、とかそんな下らない言葉は一切忘れて、高校生の頃、全身で憧れていた、あのときのような気持ちで聴いた。「愛を燃やせ」、ロックバンドのヴォーカルはそう歌っていた。「手術が終わったら、もう一度直球な感じで生きてみよう」、純哉はそんなことを思っていた。


 七時四十五分、純哉たちは予定通り手術の待合室に着いた。最初に出迎えてくれたのは、手術室看護師の「ちんそさん」だった。ニッコリ笑って純哉の肩をポンポンと叩く看護師を見て、絵美は「ねぇ、大丈夫なの?」と言った。純哉は「大丈夫も何も、何人かいたって俺はあの人にお願いするよ」と答えた。

 母親と純哉、それぞれに麻酔医師からの説明が行われた。それが終わると純哉は車椅子に座った母親に何か耳打ちをした。緊張気味の母親の顔がゆるみ頷いた。

「何?母さんに何言ったの?」

「それは姉ちゃんでも言えないよ。手術終わったら教える。言葉の効果とはそんなもんだ」

「なるほどね、じゃ我慢するわ」

 父親と母親、絵美と母親、父親と純哉、絵美と純哉、それぞれが抱き合って再会を誓った。父親と絵美を待合室に残し、母親と純哉は手術室へと向かった。後ろから絵美の「母さん、純哉、また後でね」という声が聞こえた。


 二つ並んだ手術室の前で、純哉は母親と固い握手を交わした。そんな握手を母親と交わしたのは、おそらく生まれて初めてだった。

「さっきのやつ、麻酔がかかる直前にね」

「分かった。純哉、また後でね」

「うん、後で」

 母親が片方の手術室に入るのを見送り、純哉はもう片方の手術室に入った。手術用のベッドに横になり、後は「ちんそさん」に全てをゆだねた。「ちんそさん」の目は力強く、純哉はそれだけで安心することができた。

「らくぅぅぅにしておけばいいですからね。なんかちょっとでも思うことがあったり、感じることがあったら言ってくださいね」

 特徴のあるイントネーションで「ちんそさん」はそう言い、純哉は微笑んでコクリと頷いた。心電図、血圧計、酸素モニターが体に取り付けられ、体育座りのまま横になったような姿勢で、背中に痛み止めの注射を打った。そして麻酔医師が純哉に一工程ずつ話し掛けながら背中に麻酔を流すためのチューブを挿入していった。純哉の体を支えている「ちんそさん」が、「大丈夫ですか?」と尋ねた。純哉は「大丈夫です」と答えながら「極限まで来たんだな」と思った。そこは世界と世界の境界線で、終わりと始まりの間だった。

 背中のチューブの挿入が終わり、純哉は仰向けになった。視界には天井の照明と麻酔医師の顔と「ちんそさん」の顔が見えた。

「これから酸素マスクをつけますね。麻酔を送り込むのでスーッと眠たくなりますからね。ぐっすり休んでくださいね。起きたときには手術は終わってますからね」

 純哉は頷く。そして「ちんそさん」が言ったように麻酔が体の中の電気をフェイドアウトさせていくのを感じた。全ての電気が消える前に、純哉は母親と待合室でした約束を果たした。


 意識の中の純哉は両手を広げ、拳を固く握った。その前には、六十兆の純哉自身の細胞が、純哉の声を待っていた。純哉は大きく息を吸い込み、決戦のときを待ちわびる細胞達を見渡した。それを合図に細胞達は静まり返り、すべての視線は純哉に注がれた。純哉は体全体から響きわたるような声で言った。「みんな、これからひとつの世界が終わり、新しい世界が始まる。後はみんなに任せた!未来は君たちに託した!希望と共に、全力で回復してくれ!フルパワーだ!母さんと俺は、みんなを信じて・・・」

「寝る!おやすみ!」

 一斉に立ち上がった細胞たちの歓喜の声が響き渡り、純哉と母親は眠りに落ちる瞬間、再会を誓って同じように微笑んでいた。

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