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第20章

 時刻が午後七時にさしかかろうとしていたとき、父親が部屋に入ってきた。

「純哉、先生方準備ができたそうだ。行こうか」

 立ち上がった純哉の肩を父親が軽く抱いた。「父さんとこんなふうに触れ合ったのはいつが最後だったんだろう」、純哉は遥か遠い、まだ自分が子供だったころのことを思っていた。

「母さん、さすがにナーバスになってる」

「そう」

「でも大丈夫だ、って言ってたよ」

「なら大丈夫だね」


 会議室のような場所に入ると、一番奥のホワイトボードとプロジェクタがある場所に教授が座っていた。その横には母親と絵美、向かって母親と純哉それぞれの主治医と担当医、そして担当看護師が座っていた。絵美の隣に純哉と父親が加わり、計十一名で生体肝移植についての二回目のインフォームドコンセントが行われた。

 母親の顔色が悪い。不安と緊張が入り混じり、ネガティブな思考が前面に出てきているような表情だ。母親はきっと、明日を世界最後の日だと思っている。少なくとも今この場所では教授がそれを察知してくれて、まるでその部屋には教授と母親二人しかいないような感じで、「お話を始めようと思います。お母様、よろしいですか?もう少し後にしますか?」と言った。母親は首を横に振り、「大丈夫です、お願いします」と言った。

 教授は一度ゆっくりと呼吸をして、インフォームドコンセントを開始した。今回は一回目のそれとは異なり、実際CTで撮影された、母親や純哉の肝臓を映しだした画像を用いて行われた。具体的な画像を用いた説明は、父親にも絵美にも強烈なリアリティを伴い伝わった。教授は丁寧に、どの部分をどれだけ、どうのようにして移植をするのか、全員が理解するように話した。そして説明は具体的なリスクについての話になった。教授は母親の肝臓に繋がる血管の一部が、ほぼ完全につまっていることをホワイトボードに絵を描いて示した。そしてそのつまった血管の中を、言わば掃除しなくてはならないことを伝えた。やらなければならないことが一つ増えれば、当然のことながら手術の時間は長くなる。手術の時間が長くなるということは、患者の体に負担がかかり、それだけリスクも大きくなる、そういうシンプルな図式がそこにあった。

 純哉が横を見やると、絵美が母親の膝の上にある両手を、片手でがっちりと掴んでいた。添える、という感じではなく、包み込むような形でがっちりと掴んでいた。おそらくその手を通して、勇気とか希望とか、何でもいいから『前向き』な気持ちを送り込もうとしているに違いない。しかしそんな絵美の思いと裏腹に、母親の表情は不安や緊張を通り越して、冷たく固まってしまいそうだった。

 手術の注意点や段取りに関する詳細な説明が終わると、その場からしばらく声が無くなった。主治医と担当医は明日の手術についてそれぞれのイメージを行うべく、資料を確認したり、そこに追記をしたり、考えることに集中したりしていた。看護師は二人とも母親を心配そうに見つめている。

 七十パーセントの成功と三十パーセントの失敗でバランスしている天秤。それがどちらに傾くかは、実際にやってみないと分からない。そして母親の手術は、その条件がゆえに多少難易度の高いものとなる。教授の話から伝わったその事実に、父親と絵美と純哉、そして母親は目を伏せないわけにはいかなかった。

「何か、ご質問はございませんか?」

教授のその言葉でやっと場の空気が流れ出した。しかし家族の口から質問は何ひとつ出て来ない。絵美にしたところで、今は手帳も持っておらず、ただ母親の手を握っているだけだ。誰も何も言わない、でも教授はまだ打ち切らなかった。

 純哉は伏せていた目を正面に向けた。そしてプロジェクタに映された母親の肝臓をしばらく見つめた。劣化と再生を繰り返した末に固まりかけて、もうすぐその機能を停止しようとしている沈黙の臓器。可能性については教授や医師たちがよく知っている。でも未来の答えについては、誰ひとり答えを知らない。何故ならその答えは未来に存在する『現実』のみが知りうるもので、そしてそれは自分たちで作るものだからだ。純哉はそんな思いを胸に、自分たちにとっての答えを導き出した。そしてそれを、その場で母親に伝えることこそ自分の役割だと感じた。

「母さん」

 母親は冷たくなった表情でうつむいたまま動けないでいる。絵美が掴んだ手の力を少し強めるが母親はやはり動けない。絵美にはもうどうしたらいいのか分からない。純哉は体ごと母親に向き直りもう一度言った。伝われ、という気持ちを込めて。

「母さん」

 母親の顔に僅かだが表情が浮かび、体を少しだけ起こして、ゆっくりと純哉を見た。純哉は胸を張り、真っ直ぐに母親を見つめて、そして絵美の手の下にあった母親の手を持ち上げその右手を自分の右手で掴んだ。純哉の気持ちは、今、母親の好きなアリスの歌のように直球だった。

「いいかい、俺の肝臓をやるんだ。自分が産んだ子の、これ以上無いっていうくらい強い肝臓なんだ。だからさ、生きろよ。可能性だとか何だとかこれっぽっちも考えないでいいから、ただ生きたいと思えよ。シンプルにさ、全力でさ、ただ生きたいって思えよ。そうすればさ、必ず明日が、始まりの日になるから」

 母親の瞳から一滴の涙が流れた。純哉が無言のまま「いいよ、思いっきり泣いて、いいよ」、そう伝えると、顔も伏せずに、見られているのも構わずに、母親は泣いた。そして、純哉に向かって大きく頷いた。母親が頷いたとき、純哉は耳の奥で、澱みかけていた時が轟くように流れ出した音が聞こえたような気がした。

「明日はチーム一同、最大限の力で手術に臨みます。お母様、一緒にがんばりましょう」

 教授の言葉で二回目のインフォームドコンセントが終了した。

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