第19章
翌日は朝から七本の採血を行った。みるみる抜かれていく血を見て、純哉はそれだけで貧血になりそうな気がしていた。午前中に二、三検査を行い、昼食を食べて、それっきり食事はストップとなった。飲み物は夜九時で止める予定になっていた。午後二時になると下剤が運ばれてきた。手術の際、腹の中を綺麗にしておく必要があるからだ。手術当日はさらに、朝から浣腸をすることになっていた。それから麻酔科医の診察があった。麻酔科医の診察に伴って同意書を渡された。麻酔における副作用についてのものだ。インフォームドコンセントとまではいかないが、リスクについての詳細な説明が成された。説明中、分からないことがあれば純哉は質問し、全てにおいて納得した上で同意書にサインした。麻酔科の医師が最後に「細心の注意で臨みますので安心してください」と言い部屋を出ていった。それから少しして絵美が部屋に入ってきた。
「おう、絵美姉ちゃん」
「どう、いろいろ検査あるの?」
「そうだね、検査やら診察やら。母さんはどう?」
「あっちも一緒。けどあれよね、ここまでくると私と父さんにできることは何もないよね。何していいか分かんなくてウロウロしちゃうわ」
「そっか。どっかさ、適当に出てくれば?」
「そうも思ったんだけどね、さっき母さんの主治医の先生に聞いたら、インフォームドコンセントの時間、予定が立たないんだって。多分夜かもしれないけど、早まるかもしれない、なんて言うの。まぁウロウロしとくわ。何かあったら携帯に電話くれるように看護師さんにも言ってあるから」
そう言って絵美は出ていった。純哉は少し音楽でも聴いて横になろうと思い、ヘッドフォンをつけかけた。するとそこへ、看護師がまたひとり入ってきた。見た目の年齢からするとベテラン級の看護師のようなのだが、どこかしら挙動不審で、何だか、何かを探していて、偶然部屋に迷い込んでしまったかのように、居心地悪そうな雰囲気をかもしだしていた。純哉がヘッドフォンをつけようとして固まったまま見ていると、看護師はスーッと近づいてきた。
「こんにちはぁ」
「あ、はい、こ、こんにちは」
「今、よろしいですか?」
「え、あ、はい」
「あの、もしお忙しかったら後でまた伺いますんで」
「いや、ほんとに大丈夫です」
「そうですか?あのですね、わたくしですね、明日の手術のときに、純哉さんを担当させていただくものなんです」
部屋の中には純哉と、なかなか目を合わせようとしない、手術室担当看護師を名乗るその女性しかいなかった。純哉はできることならナースコールを押して、「本当にこの方で合っているのでしょうか?」と確認したかった。しかしそんなことができるわけもなく、その看護師はテーブルの上に資料を広げ、ちょうど三秒間、演技のような笑顔をその表情に浮かべ、それから真顔に戻り、手術の流れについての説明を開始した。純哉はしばし呆然となった。
その看護師は最初の印象通り「一風変わって」いた。表情の作り方であるとか、喋り方であるとか、話や行動の「間」であるとか、なかなか普段巡り合えるタイプでは無かった。そのおかげで、始めのうち純哉は不安を拭い去ることができなかった。しかし時が経つにつれ、その不安も解消されていった。特徴的な看護師の説明は、お世辞にも流暢とは言えなかったが、たどたどしくも、真心のこもったものだった。一言一句を大事に口にして、説明内容がきちんと伝わるように、自分が話したあとは必ず純哉の目を見て確認してくれたし、何より、純哉が不安にならないよう、とにかく一生懸命フォローしよう、という姿勢が伝わってきた(おかげで実際、額に汗までかいていた)。「一風変わって」いることについては否めないが、取り繕って、いいかげんなことを言うようなタイプに比べると、何倍も好感が持てたし、それに『手術』という、自分の体の内側に触れられる行為のサポーターとして考えるなら、自分にとってこの上なく望ましい人材だ、と純哉は感じていた。生命の極みに近づくごとに、純哉は『人が人を想う心』の大切さを学んでいくのだった。
純哉は心の中で彼女のことを「ちんそさん」と呼んで親しんだ。手術中の状況についての図を用いた説明の際、純哉の口と鼻から「さんそ」が送り込まれることを書こうとして、彼女は何度も「ちんそ」と書き間違った。純哉に向き合った形で、純哉に向けて描かれた図を用いた説明だったため、反対側から字を書く必要があり、そうなってしまったのだが、何度トライしても「さんそ」は「ちんそ」になった。あまりにおかしかったので純哉が吹き出すと、真顔だった看護師もとうとう吹き出して笑い、結果的に資料を自分の方に向けて「さんそ」と書いた。そして看護師が「失礼いたしました」と方言まじりのイントネーションで言い、「とんでもないです」と純哉が答えた。そんな、思わぬ場所で、思わぬときに出会えた『笑』は、手術に向けてジワジワと緊張を積み重ねていた純哉をリラックスさせてくれることとなった。些細な出来事ではあったが、そのことで実際に心も体も随分楽になれたこともあって、純哉はある意味、リスペクトの意味を込めて彼女を「ちんそさん」と呼んだのだった。そのせいでと言っては何なのだが、純哉は看護師の本当の名前をすっかり忘れてしまった。おかげで彼女は永久に純哉の中で「ちんそさん」となった。